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J-1:「平安時代をやろう!」

ワタクシの苦手な平安時代を、一念発起して綴ってみます。何故か「百人一首」ネタになりつつあります・・・・。

2012年3月30日 (金)

ケイズセイサクノ日々

職場の友人に頼まれて、大河ドラマ「平清盛」に関係しそうな系図を作っておりました。

「歴史は地図と年表があるとイメージしやすい。飛鳥・奈良・平安は系図もあるといいね」というような会話からの流れで頼まれたのです。

きのう14枚ほど完成したので、プリントして渡してみたら「おお、すげー!」とお褒めの言葉を頂けました。

本から画像ソフトに書き写すだけの作業ですが、構図とか色々と苦労もあったので、もっと褒めてもいいぞよ(何)


せっかくなので、装飾と彩色を施して、blogにもアップしてみようという魂胆が、今日の日記です。

「平清盛」を視聴されている方は、気が向かれたら参考になさってみてくださいませ。

歴史はイメージさえ掴めれば、こっちのもんですよー。



ついでなんで、かるーく解説もつけちゃいます。

(赤い枠の名前は、今年の大河に出ている、あるいは出てきそうな注目株の人物です)


■藤原氏略系図

Photo_5

今週の放送で亡くなった「待賢門院璋子」サマと、「美福門院得子」サマの関係が分かるかなーという系図。

ドラマで名乗ったかどうか忘れましたが、実はお二人とも藤原氏。
藤原璋子サマと藤原得子サマなのですねー。

璋子サマの父(公実)と得子サマの祖父(顕実)が兄弟という、意外と近い関係。
鳥羽天皇の母も親戚筋で、璋子サマにとっては従兄弟にあたります。

藤原氏といっても摂関家とは違う傍系で、「望月の歌」で有名な御堂関白「藤原道長」の叔父の系統に列なります。

(ちなみに「鳥羽天皇の母は摂関家の娘じゃないの?」と思われた方。鋭い!このあたりにも、一時は「この世は望月の欠けたところもないようだよ」と詠うほど栄華を極めた摂関家が、この頃はもうボロボロだったのが伺えますね)


ついでに、先週の放送で亡くなった清盛の最初の妻・明子の系図(高階家)も載せました。

舅殿(高階基章)が「祖父の系統を辿れば紫式部にも繋がる」と言っていた通り、先祖には「源氏物語」で有名な紫式部がおります。

紫式部の旦那は、親子ほども年齢の離れた中年男・宣孝で、紫式部と結ばれる前に何人か子供がおりました。

そのうちの1人が、待賢門院璋子サマの母方の祖先となっています。


■桓武平氏略図

Photo_6

平安京遷都を行った桓武天皇の、何番目かの皇子・葛原親王の子が、平氏の姓を賜って臣籍に下ったのが「桓武平氏」の一派です。

このうち、高望王は肥沃な関東に下って統治する道を選び、「坂東平氏」の祖となります。

高棟王は京から離れず中央政権に残り、公家平氏(堂上平氏)と呼ばれる一族の祖となります。
今週の放送で登場した、清盛の正室・平時子(二位尼)の実家は、この公家平氏の出身です。同じ平氏でも、だいぶ遠い親戚です。


坂東に根を張った平氏は、平安時代の前期~中期頃にかけて「平将門の乱」と「平忠常の乱」という、大きな戦乱を起こしています。

将門のほうは平氏が一丸となって討伐し、早くに決着がつきましたが、忠常のほうは失敗。戦乱が長引いてしまいました。

すると中央から源氏が派遣され、ようやく乱は鎮圧。これを機に源氏が坂東で幅を利かせるようになっていきます。

そんな「源氏の我が物顔」がイヤになった平氏の一派が、伊勢國に流れて根を張り、伊勢平氏(つまり清盛たち一族)の祖先となった・・・・と言われているみたいです。

清盛たちは、平氏の傍系であるばかりか、坂東から逃げ出した一族でもあるわけで、藤原氏どころか同族(坂東平氏)からも低く見られていたのではなかろうかと、ワタクシは想像しています。

この点、武家政権を樹立させる意味においては、祖先が築いた名声と父(義朝)が築いた坂東の地盤を背負ってスタートできた頼朝と比べると、忠盛・清盛親子には大きなハンデがあった・・・・というのが、マイ平家パワーバランス論です。


ところで、この平安時代末期を彩った武家同士の争いって、「源氏vs平氏」の戦いだと思ってません?

よく「源平合戦」と言われるし、最終対決が「源頼朝vs平宗盛」だったので間違いとは言い切れないんですが、桓武平氏の系図を見ると、頼朝の側について戦った人たちが目につくかと思います。

源頼朝の舅・北条時政。頼朝側のナンバー2・平広常(上総介広常)。義経と口論した梶原景時。平敦盛を討った熊谷直実。etc・・・・。

「源平合戦」は、実質上は「坂東平氏」と「伊勢平氏」の戦い、つまり「平平合戦」だった・・・・と考えてみると、流謫の身である頼朝が「奢れる平家」を相手になぜ戦えたのか?坂東の武士たちはなぜ平家の元に集わなかったのか?鎌倉幕府の源氏公方が三代で滅びてしまったのはなぜか?のあたりが、見えてくるんじゃないかなーと思ったりします。

(余談ですが、忠常の子孫・平常兼を千葉県の方は注目!そう、この人こそ千葉氏の初代。千葉サンは坂東平氏だったんですねー)



■熊野別当略系図

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2012年3月19日 (月)

「皇太弟」という罠

今年の大河ドラマ「平清盛」

視聴率はあんまり振るってないなんて話を聞きますが、制作者じゃないし、他人の評判なんて一切気にしないのがスタンスなので、ワタクシには関係ありません。

去年より視聴率が悪いっていうのも、なんか胡散臭さ満開だしね(笑)


ワタクシの周辺でも、一部は盛り上がってますけど、全体的には見てないとか、見ても分からないとかいうかんじ。

なので、ここに平安末期ネタを書くのは遠慮しようと思っていたんですが、ちょっとした必要が生じたので、時々綴ってみようと思い直しました。

いつも自己満足でやってるわけだし、まぁいいか・・・・というのも半々。

興味ない方は、いつものようにUターンしてください。



昨日の放送では、崇徳天皇の退位と近衛天皇(体仁親王)の即位が描かれていました。

「体仁親王をアナタ(崇徳天皇)の養子にして、譲位してちょーだい」
「上皇になれば、実権を握れるわよ」

と、得子に囁かれ、実権のない虚しい地位から脱したかった崇徳天皇は、よしとばかりに譲位してみたら、

「皇太弟に譲位する」

と譲位の詔で読まれて、「皇太・・・・【弟】だと!?違う!違う!」とあわてふためく、陥れられた崇徳天皇が描かれていました。


この辺、まずは系図を描いて、ちょこっと整理してみます。

こんなかんじ。

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2012年2月26日 (日)

宋銭渡来

大河ドラマ「平清盛」。

まだ第1話と、土曜日の再放送を仕事の休憩中にチラチラっと見た程度なので、録画を見てからリアルタイムで見ようと思っていたんですが。

職場のKクンに「頼長が出ますよ~」と吹き込まれたので、ガマンできずに見てしまいました(笑)

(のちの)悪左府、登場!!

いやー、中ボスって感じで、中々いいかんじw

積んだ本のズレをそっと直すシーンに、思わずニヤリとしちゃいました
(頼長は何事もキチンとしていないと気が済まない人。それを他人にまで過激に強要するので、「悪左府」と怖れられたわけです)

このまま「保元の乱」まで、イヤミたっぷりに突っ走ってほしい(切望w)


で、登場人物を見渡してみれば、崇徳院はいるわ、佐藤義教はいるわ、藤原忠通はいるわ、堀河局はいるわで、百人一首オンパレード。

さすが、かるた競技を題材にした連ドラを手がけていた人が脚本やってるだけあります。

藤原定家や藤原家隆や寂蓮や西園寺公経や二条院讃岐は出るのかな?そのあたりも、楽しみになりそうですなw



今日はドラマのタイトル「宋銭と内大臣」の内大臣・頼長で盛り上がりたいところですが、それでは負けた気がするので、「宋銭」のほうを取り上げてみようと思います。

前にも書いているしね(笑)

■不敵不敵 ~激情と赤裸々の悪の華(関連)
http://baron-baron.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-4e9e.html


ワタクシ経済はからっきしなんですが、まぁいつものように適当にやります。

お金っていうのは不思議なもので、思いもしないルートで近代まで繋がってくるので、「貨幣の歴史」っていうのも意外と面白いものですよ。



平安時代あたり税収は、「租」「庸」「調」でした。
米、布、綿、塩、馬などの生産される物資や、都での労働力です。

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2011年2月25日 (金)

40年サイズの怨念服


小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆきまたなむ

― 貞信公(百人一首)―

《小倉山の紅葉よ、もしお前に趣きを理解する心があるなら、(醍醐天皇の)行幸があるまで、散るのを待ってくれないか》



延喜3年(903)2月25日、前右大臣で大宰権帥の菅原道真が、流謫の身のままこの世を去りました。

ちょうど今日が命日(旧暦ですけど)

というわけで、「平安時代をやろう企画・第3弾」で取り上げた「菅原道真」の続きをやります。


ただし、主に取り上げるのは違う人になるので、今回は「第3弾の後半」ではなく「第4弾」になります。

その人こそ、貞信公。この方が何者か・・・・については、後ほど触れます。


菅原道真の死後、旱魃や洪水など全国で天変地異が起きて、「道真公の祟り」が噂されていく中。

その恐怖は朝堂をも蹂躙して、時の権力者たちを奈落のどん底に叩き落すのですが、これがまた凄まじい。

いい機会なので、いちいち列挙してみようと思います。

名づけて「菅家版デスノート」(笑)


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■藤原定国(ふじわらの・さだくに) 延喜6年(906年)

大納言。40歳で急死。

「菅原道真が謀反の疑いで左遷される」という情報をキャッチして、道真のよき理解者であった宇多法皇は、慌てて醍醐帝のもとに向かうのですが、それを“滝口の武士”を使って御所の門前で阻止したのが、この人。

それが道真公の怒りに触れちゃった・・・・と言われてるとか、言われてないとか。

ぶっちゃけ、彼は職務を全うしただけ。
なので、「道真の祟り」で死んだと見做されるかどうかが微妙です。
なので、彼を1号とするかどうかは意見が分かれるところ。

ただ、この年(延喜6年)に醍醐天皇は、連座して流刑されていた道真の子供たちを恩赦して、長男・菅原高視(たかみ)を大学頭に復しています。

国定の死で道真を連想したのか?
それとも、ほかに何か思うところがあったのか?

一応、参考までに。


■藤原菅根(ふじわらの・すがね) 延喜8年(908年)

参議。享年53。

さっきの藤原定国と一緒に宇多天皇を門前で阻止した人。
ですが、彼の場合はちょっと事情が違います。

彼は、道真に推薦されたおかげで「春宮侍読」という皇太子(=敦仁親王=醍醐天皇)の先生として抜擢されました。

いわば、彼にとって道真は恩人。
つまり「道真を助けようとした宇多天皇を閉め出した」というのは、「恩を仇で返したヤツ」となるわけです。

なので、定国とは違って、明らかに「道真公の祟りで死んだと思われた」みたい。

最期は、落雷にあって死亡。この死に方も・・・・。


■藤原時平(ふじわらの・ときひら) 延喜9年(909年)

左大臣。享年39。

言わずと知れた菅原道真のライバルで、道真を失脚させた張本人の1人。

藤原国定(1番目)、藤原菅根(2番目)で恐怖が高まったところを、狙い撃ち。
一番憎いヤツを3番目にヤるなんて、道真公もお人が悪い・・・・。

かなり意欲的な人でして、「延喜式の完成」「荘園の整理」をマニフェストとして活動していました。
今で言うと、憲法改正と構造改革でしょうかね?(笑)

まだ関白になっておらず、祖父も父も就任しているので、それを心から欲していたみたい。
が、志ならずに死去。道真の怨霊を恨んで怨霊になりそうな気配さえします(苦笑)


彼の死の直前、天台の高僧・浄蔵を呼んで、悪霊退散の祈祷をやらせたのですが、両耳から1匹ずつヘビが出てきて、それを退治しようとする浄蔵に「時平の悪事」を挙げて懇々と説得してきます。

やむなく浄蔵が引き下がると、時平が狂死。

坊主を説得してしまったわけです。なんて怨霊だ・・・・。


■源光(みなもとの・ひかる) 延喜13年(913年)

右大臣。道真を失脚させた張本人の1人。

前回の政争劇で紹介した、源氏が押し上げようとしていた「源氏の期待の星」。
道真が失脚した後、見事に右大臣の後任をせしめ、オイシイ思いをしていた人。

彼の最期は、結構なホラー。

鷹狩に出た際に、乗馬したままあやまって沼地にハマります。
そこが底なし沼になっており、脱出することができずに溺死。
遺体も上がらず、その後の姿を誰も見ることはなかったとか(怖いわっ)

関係ないけど、「鷹狩」ってところに「ああ、源氏って武家なのね」という感じがしますw
それとも、源光がアウトドア派だったのかな(笑)

#時の帝・醍醐天皇が「鷹狩」が大好きだったので、「権力者の嗜み」だった・・・・ってのが近かったり?
ゴルフ接待ならぬ、鷹狩接待。風流なのか人間くさいのか・・・・。


■三善清行(みよしの・きよゆき) 延喜18年(918年)

参議兼宮内卿。文章博士。享年72。

道真の属していた「菅原学閥」と張り合っていた、「大蔵学閥」の人。
つまりは「菅原下ろし」を盛大にやっていた1人。

道真が失脚した後は、「意見封事」という政策論を上申して、しきりに「第二の道真たろう」と狙っていたようですが、結局は参議止まりに終わりました。

出世街道をひた走る道真に「アナタ、やり過ぎですよ。周囲に恨まれてますよ。引退なさったら?」という手紙を送りつけています。
これを「親切」と見るか「イヤミ」と見るか「瀬踏みをしていた」と見るかは、意見が分かれるトコロ。


さっき時平の段で悪霊退散の祈祷をした高僧・浄蔵は、彼の息子。

浄蔵が作った結界に守られて、齢七十を越えても(祟られることなく)生きていたのですが、息子が熊野に詣でている留守中に護符が剥がれ落ちてしまい、その隙を道真公に突かれて死亡。

この異変に気がついた浄蔵が、急ぎ引き返してきたのですが、すでに5日も経っていて、間に合いませんでした。

そこで、“あの世との境目”と言われる「土御門橋」に父の遺骸を運び、「死後七日目まで生き返らせる」という秘術を行って生き返らせ、話し込んで今生の別れを惜しんだというエピソードが残されています。

これが「(一条)戻り橋」の名前の由来。

清行は西(極楽浄土の方角)に向かって座り、念仏を唱えながらタイムリミットを迎え、安らかに死んだそうな。


■保明親王(やすあきらしんのう) 延喜23年(923年)

醍醐天皇の皇太子。享年21。父に先立っての夭折。

薨去された年が、923年。道真の死から20年が過ぎてます。
というか、生まれたのが道真が亡くなった年という・・・・。

母親が、藤原穏子。道真を追放した時平の妹。
父親は、醍醐天皇。道真が左遷された当時の天皇。

そして、立太子に推したのが、藤原時平。

病気らしい病気もしてない中での突然死だったので、醍醐天皇の衝撃も相当だったみたい。

#余談も余談ですが、この2年前の延喜21年に陰陽師「安倍晴明」が誕生しています。
いや、伏線でもなんでもなく、ホンマに全く関係ない話。
さっき「戻橋」の話を出したので、一応触れておこうかと・・・・ね(^^;


■慶頼王(やすよりおう) 延長3年(925年)

さっきの保明親王の第一子。つまり醍醐天皇の嫡孫。5歳で死去。
母は、時平の娘・藤原仁善子。

保明親王が急死した時、「もしかして菅原道真の・・・・?」と、朝廷もようやく気がついた(?)みたい。

そこで、醍醐天皇は「道真追放の宣旨」を破棄。
さらに道真の官職を「右大臣」に復して、生前より一階昇進の「正二位」を追贈。
道真を追放したことを白紙に戻そうとしました。

ここに来て、ようやく菅原道真の「無罪」が確定したわけです。

これらの動きは、新たに立太子した慶頼王を守るための“厄除け”だったと見ることができるのですが、しかし道真公は許してくれなかったようで、ついに夭折。
「時平の血筋に皇位は与えないからな!」という恨み言葉が聞こえてきそうです。

代わって、保明親王の同母弟・寛明親王(2歳)が立太子。

「今度こそは守りきらねば!」と、3歳になるまで昼夜問わずに灯を燈して、幾重にもめぐらせた御張台の中で育てたとか。かなり神経質になっていたみたい。

その甲斐があったのか、この子は無事に育って、後に「朱雀天皇」として即位。
この方の在位中は、平将門の乱や藤原純友の乱などが起こり(承平・天慶の乱)、富士山も噴火したりしています。

それにウンザリしたのか、後に仁和寺で出家して、同母弟の成明親王(後の村上天皇)に譲位。
まぁ、道真公の祟りではないんだろうけども・・・・。


■藤原清貫(ふじわらの・きよつら) 延長8年(930年)

権大納言民部卿。享年63。

「日照り続きによる水不足」を閣議するため、左大臣・忠平以下が御所の清涼殿に集合。

「神泉苑の水でも開放せねばなるまい」「ぇー、平民のためにー?雨乞いでいいじゃん」なんてワイワイ言っていると、午後1時ごろ、突如として暗雲がたちこめました。

「おっ、ひと雨くるかな!?」と期待を寄せていたら、つんざくような雷鳴が轟いて、稲妻が藤原清貫を直撃。

衣服は破れ、胸は“ざくろ”のように裂け、黒焦げになった変わり果てた姿が地面を転がったのでした。

巻き添えを喰らった公卿・官人も多数。
右中弁・平稀世(たいらの・まれよ)は顔面に直撃を喰らって重傷。
右兵衛佐・美努忠包(みぬの・ただかね)は髪が炎上。
右兵衛佐・紀蔭連(きの・かげつら)が腹部にダメージ。
安曇宗仁(あずみ・そうじん)も膝に負傷。
そして、次々にショック死。

後に「清涼殿の落雷事件」と呼ばれる大惨事が、一瞬にして起きたのでした。

藤原清貫は、道真が左遷された後、宇佐八幡宮に遣いとして参詣したついでに、大宰府に立ち寄って道真に会ったのですが、その様子を「反省してないみたいだよ」と醍醐天皇に報告し、「だから祟られたんだね」と噂されたみたいです。

ちなみに、藤原清貫は在原業平の孫(娘・美子の息子)です。


■醍醐天皇(だいごてんのう) 延長8年(930年)

「清涼殿の落雷事件」で、すっかり気が動転してしまった醍醐天皇は、事件からわずか2ヶ月後に崩御。享年46。

わずか8歳の寛明親王が即位し、「朱雀天皇」が誕生しました。


この後、醍醐天皇は地獄に堕ちた・・・・という伝承が残っています。

一般には、醍醐天皇は「延喜の治」といって、聖君として讃えられているんですが、それとは正反対ですなぁ。

(聖君だからこそ、後醍醐天皇が「あやかりたい」と名乗りにしたわけですから)


■藤原保忠(ふじわらの・やすただ) 承平6年(936年)

近衛右大将・大納言。時平の長男。享年47。

左大臣・時平が長生きしていれば、次期摂関の有力候補でしたが、父が早逝して叔父の忠平に権勢を持っていかれてからは、家運は衰退の一途。

「これも道真公の・・・・」と気が気でなかったようで、病床に伏せた時、僧侶を招いて加持祈祷を行わせたのですが、薬師如来の読経中に「宮毘羅大将(くびらたいしょう。薬師如来の眷属)」の名前を聞いて、過剰反応。

「く、くびれ大将!?大将をくびるだとッッッ!!??」

自分(保忠は右大将)をくびる呪文と聞き間違えて、恐怖のあまり悶絶。頓死してしまったのでした。

空耳で亡くなるなんて、相当ノイローゼだったんですな・・・・。


■藤原敦忠(ふじわらの・あつただ)  天慶6年(943年)

従三位・権中納言。享年38。

幼い頃から、自分の一家が道真公の怨霊に殺されてきたのを見て育ったせいか、「自分は長生きできないだろう」と最初から諦めていたみたい。

恋と風流に生きる道を選び取って、短い人生を謳歌しました。

具体的には、高嶺の花を摘み取るような恋。

これって、どこかで・・・・?
そう、祖父の罪に連座して臣籍降下させられた、在原業平と同じ。破滅型の恋です。

実は敦忠、業平のひ孫なんですねー。
ひい祖父サン・業平の美貌と歌の才と恋に生きる素質を受け継いだ貴公子というわけです。

業平の孫娘が美人で、藤原国経というジジイの所に嫁いでいたのを、惚れ込んだ時平が略奪婚したんだそうな。
(時平にとって、国経は伯父サン)


ちなみに、藤原敦忠は三十六歌仙の1人で、百人一首にも選ばれてます。

四十にならずに亡くなったことから「北野(道真)のお嘆き(恨み)」が原因と歴史物語『大鏡』で言われているのですが、そうではなくて百人一首の・・・・というネタがあるんですが、結構オイシイ話なので(笑)、今日はやめて後日に取っておきます。

(色々と詰め込めるから、どうやって書こうか構想が難しいんですけども・・・・)

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ワタクシの調査では、デスノートに名を書かれていた人は以上。
さらっとやるつもりだったんですが、長くなってしまいました・・・・。

40年に渡って呪い続け、ここで挙げただけでも14人を葬り去るとは、道真公の執念・怨念は恐るべし・・・・といったところです。くわばら、くわばら・・・・。


しかし、ここで冷静に考えてみると、以下の2つの疑問にぶち当たります。

①はたして「菅原道真」という人間は、ここまで執念深くて慈悲のカケラもない、濡れ衣に怒り狂うようなタチの人間だったのだろうか?

②こんな恐ろしげな悪霊が、なんで後に『学問の神様』なんていう、急にポジティブな存在になったのだろうか?

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2011年2月11日 (金)

スミレとウメのタフガイ

このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに

― 菅家(百人一首) ―

《此度の旅では、幣(ぬさ。旅の安全祈願に捧げる織物)を忘れてしまい、捧げることができません。この手向山の見事な紅葉を錦の幣の代わりとします。どうぞ、神のお気に召されるように》



日本の神サマは“八百万の神々”なんて呼ばれて、その多さに混沌としそうなんですが、大きく分けると4つに分類できたりします。

①いにしえの神々。
②歴代天皇や祖先(特に藩祖)を祀った神社の神々。
③怨霊信仰から祀られた神社の神々。
④明治以降に創られた国家神道で祀られた功臣。


①は、日本書紀、古事記、先代旧事本紀、古語拾遺、風土記なんかの古書に登場する神話上の神サマ。
アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ、サルタヒコ、アメノヒボコなどなど。
さらに天津神・国津神・産土神なんかに分類されていくんですが、今日は関係ない話なので「いにしえの神々」で一括りにしておきます。

②は、実在の人の功績を称えて、神として祭り上げられたもの。
いくつか挙げてみれば、日光東照宮には「東照大権現(徳川家康)」、豊国神社には「豊国大明神(豊臣秀吉)」、上杉神社には「上杉謙信」が、それぞれ祀られている。そういうカテゴリーです。

④は、②と一緒にしてもいいのかもしれないけれど、明治以降の国家神道って、それ以前とは性格が(属性が?)違うような気がするので、ワタクシは分けて考える方法を採りたいです。
「東郷神社(東郷平八郎)」「乃木神社(乃木稀典)」「靖国神社」などです。
「明治神宮」や「平安神宮」が、カテゴリー②なのか④なのか?・・・・は、延々と整理中。まぁ、どっちでもいいんですが。

③は、失脚させられたり敗北したりして、無念のうちに死んでいった者たちの御霊を祀った神々。
②とは「相当の恨みを持ち、かつ祟りを起こしそう(あるいは起こした)」という違いがあります。
代表的なのは「上下御霊神社(早良親王、伊予親王、橘逸勢など)」
そして「天満宮」。

天満宮に祀られているのは、天神様こと、菅原道真公。


というわけで、今日は「平安時代をやろう」企画第3弾w

ここまでは今回の主役・菅原道真に入るための前置きなのでした。ああ、長かった。


菅原道真は、9世紀から10世紀、平安時代初期の人物。

第1弾で取り上げた「在原業平」とも親しかったそうで・・・・そんな時代です。

それにしても、道真は天才学者。一方の業平は、学問はからっきし。
まるで正反対なのに、面白いつながりですな・・・・。
(ちなみに、業平の方が20歳年上)


菅原氏は、もともとは土師氏。

土師氏の遠い祖先は野見宿禰(のみのすくね)といって、いま不祥事続きでえらいことになっている「相撲」の起源となった英雄です。

朝廷に対して挑発的な態度を取った當麻蹶速-トウマノケハヤを、相撲の取り組みで倒し、アバラをバキバキにしてブチ殺しました。

この功績で天皇家に仕えることになった後、“埴輪を作る役職”についたために「土師」を名乗っていたのですが、桓武天皇の時代に「菅原朝臣」の姓を賜り、以降「菅原」を名乗ることとなったのでした。


相撲、埴輪・・・・と関わってきた菅原氏(土師氏)は、平安時代には学問の家門となります。

道真は、ご存知のように、こっちの分野に関してバツグンの才能の持ち主。

18歳で「文章生試(もんじょうのしょうし・・・・漢詩と歴史の教授。定員20名)」に合格(当時の最年少タイ記録)
26歳で「方略試(ほうりゃくのためし)」に合格。

この方略試。奈良から平安時代までの230年ほど開催された論文試験なのですが、合格した人は、なんとたったの65人。
単純計算で3~4年にひとりの合格率という超難関。それを一発で突破したのだから、とんでもない英才です。

「最難関試験に合格した」から、後に「学問の神様」となったり、学生服のブランド名(カンコー学生服)になっていったりするわけなんですねー。


天才学者・菅原道真。

この言葉から「痩せ枯れた」「弱々しい」なんて形容詞で想像してしまいたくなりますが、実物の道真は、すんごいタフガイ。

彼がもうけた子宝は、なんと23人。さらに、当時最大級の夜の街だった「江口(大阪府)」にも足繁く通っていたというのだから、結構精力的です。

「在原業平とは正反対なのに親しかった」と書きましたけど、違いますね。似たもの同士です(笑)


もっとも、タフガイなのは情愛だけでのことではなく、彼は“気骨の士”でもありました。

彼が都を去る時に詠んだ有名な一句、

「東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」

最後の「忘るな」とは、「忘れるなよ」という命令口調。
このあたりから、強く激しい気性を読み取れる・・・・という見方があるんですが、前にも言ったとおりワタクシ文学の素養がないので、ここは紹介にとどめて、歴史的に見てみると。


仁和3年(887年)、「太政大臣・藤原基経が、朝廷に対してストライキを起こす」という大事件が勃発しました。

歴史上「阿衡の紛議」と呼ばれているもので、かいつまんで説明すると、関白に任命する詔に書かれた「阿衡(あこう)」という言葉の解釈をめぐるって起きた事件。

「阿衡」は「関白」を表す言葉である一方で、「お前に権限は無い!」との意味にも受け取れる言葉だったのです。

「俺に政治をやるなと言うのか!」と、基経もう大激怒。詔を書いた文章博士・橘広相(たちばなの・ひろみ。基経のライバルでもあります・・・・)の処罰を要求して、職務をすべてボイコット。政務は滞り、政治は大混乱に陥りました。

これはぶっちゃけ難癖以外の何者でもなく、時の帝・宇多天皇は周囲の学者に「阿衡って何か問題あるの?」と困惑気味。でも、みんな太政大臣を恐れて「問題あり」と解答して逃げていきます。

ならば仕方がないと橘広相を更迭した上でなだめても、「更迭なんて甘い!流罪にしろ!」と突っぱねられる始末(天皇の言葉なのに・・・・)

橘広相をお気に入りとしていた帝が困り果てていた所に、当時讃岐(香川県)に赴任していた菅原道真が急遽上洛してきて、基経を諌める書簡をしたためました。

要点は、以下の3つ。

①確かに「詩経」の意味では「阿衡」に権限はないけど、「漢書」ではそうではない。
②文章博士とて、全ての言葉の意味を完璧に理解するのは不可能。もし今回のことで橘広相を処罰すれば、同様の役職についているものが萎縮してしまう。
③橘広相は宇多天皇の即位に尽力した功臣。功績も血筋も才能も文句の付けようのない名臣を処罰するのは、貴殿のみならず藤原氏にとっても、得策ではない。

誰からも出なかった「漢書」の知識を持ち出し、天皇の意に沿って橘広相を庇い守りつつも、藤原氏の将来も心配する、見事な手紙。直言も直言で、学者としての職務を、きっちりと全うしています。

「すげー、菅家すげー」と、基経もいたく感激して、この騒動は一気に収束していったのでした。

(補足:一流は一流を好む・・・・というわけか、元から基経は菅家のファンだったみたい。こういう信頼関係の上で、道真の知識と技術がモノを言ったわけですな)

以上が「阿衡の紛議」のあらまし。

この事件は、天皇の宥めも突っぱねたことから「摂関家の力関係を見る象徴的出来事」と一般には解されているのですが、誰もがビビって意見できないでいる太政大臣に、堂々と諫言した菅原道真の気骨ある姿を、垣間見れることでも重要です。

というのも、この一件で宇多天皇は藤原氏を疎ましく思うようになり、また道真の才能と気骨を愛して重用するようになっていったからです。


菅原道真が任期を終えて京都に戻ると、翌年の寛平3年(891年・・・・最近帰国したタレントじゃないよ・笑)、関白・藤原基経が薨去。

基経の息子・藤原時平は、この時21歳。
年若いために関白には任ぜず(藤原の氏長者にもなってない)、宇多天皇は親政に邁進しはじめます。

重用された道真も、蔵人頭から始まって、左中弁、左京大夫、左大弁と、中央でどんどん出世を重ねていきます。

出世街道をひた走り、右大臣まで登りつめるのですが、最大の支持者・宇多天皇が「もォ、やだっ!」と駄々をこねて(?)醍醐天皇に譲位すると、反菅原勢力の攻撃が始まってしまうのでした。


当時、最高位の左大臣だったのは、藤原時平。次席が菅原道真・・・・はっきり言って邪魔です。ゆえに、朝堂の中の藤原派(第一党)が、まず反菅原勢力となりますが、それだけではありません。

朝堂の中の源氏勢力にとっても、道真が邪魔でした。

源氏は、序列第4位の「中納言・源光(みなもとの・ひかる)」を高位につけようと画策していました。問題は、誰を蹴落とすか?

第1位・左大臣の時平は、藤原摂関家の実力者ですから、これを狙うのは至難。
第3位・大納言・藤原高藤は、醍醐天皇の外祖父であり これまた至難。
でも、第2位の菅原道真なら、割りと手軽。しかも、こいつを排除すれば右大臣を狙えるのです。

道真は、少数与党どころか個人与党。周囲はみんな敵・・・・という状態に追い込まれていたのでした。


昌泰4年(899年)1月25日。

たまたま娘が、醍醐天皇の異母弟(斉世親王)に嫁いでいたことから、「斉世親王を立てるため、醍醐帝の追い落としを狙っている!」とイチャモンを付けられて、右大臣から大宰権帥に降格。大宰府へ左遷させられてしまいます。

2年後の延喜3年(901年)2月25日。菅原道真は、失意の中で亡くなりました。享年59。


ここから、身の毛もよだつ凶事が続き、「失意の中で亡くなった、道真公の祟りだ!」と恐れられたのは、よく知られている話。

なのですが・・・・ここから先もまた長くなるので、次回に持ち越しとして一旦幕を閉じようと思います。

えぇ、これで半分くらいですので(苦笑)

オハナシハツヅク・・・・いつになるか分かりませんが、宜しければオタノシミニ。



余談、その1。

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2011年1月18日 (火)

不敵不敵 ~激情と赤裸々の悪の華

夏目漱石の「我輩は猫である」で、クシャミ先生が細君に、

「一番長い字を知ってるか?」

と聞くくだりがあります。

細君の答えは、

「前関白太政大臣でしょう」


漢字で7文字は別に長くないし、これだけ見るとサッパリ意味がわかりませんが、「百人一首」の知識があれば、あっさり解決。

「わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲いにまがふ 沖つ白波」

《大海原に漕ぎ出でてみると、はるか沖の方に、雲と見間違うような白波がたっている。なんて素敵w》


「百人一首」に納められたこの和歌を詠んだ人の名が、「法性寺入道前関白太政大臣」

漢字で12文字は、100人中第1位(2位は「後京極摂政前太政大臣」の10文字)

ほっしょうじの・にゅうどう・さきの・かんぱく・だじょうだいじん。
細君は「この長ったらしい名前のことでしょ」・・・・と、答えているわけです。


そんな、長ったらしい前関白太政大臣の実名は、藤原忠通(ふじわらの・ただみち)

12世紀前半、平安時代後期を生きた、藤原の氏長者です。

というわけで、「平安時代をやろう」企画の第2弾。

ただし、主役は「藤原忠通」ではなく、彼の実弟「藤原頼長(よりなが)」でやってみようと思います。
(理由は後で述べます。なぁに、大した理由じゃないよ。←マジで)


藤原頼長。保安元年(1120年)5月生まれ。

関白・藤原忠実(ただざね)の次男として生まれました。

長男は、さっきの長ったらしい名前の忠通。永長2年(1097年)の生まれ。

頼長とは23歳差。親子ほどの年齢の離れた年の差兄弟です。

お父サン、だいぶ高齢になってから生まれたこの次男坊が、もう可愛くて可愛くてたまりません。もう、目に入れても痛くないほど(笑)

この可愛がりぶりが、やがて藤原一家に悲劇をもたらしていくことになりますが、それはまた別のお話・・・・と、します。


忠通には男の子がいなかったので、成長した頼長は、跡取り息子として実兄の養子に入れられました。

やがては摂関家を背負っていく立場。期待のホープとしての政界入りです。

しかし、彼は「親の七光り」で登って行くタイプの政治家ではありません。

彼の死後、甥っ子が書いた史論書「愚管抄」には、「日本一の大学生、和漢の才に富む(日本一の学者。和漢の書の知識はピカイチ)」と評されております。

彼自身もかなり有能な頭脳の持ち主で、しかも相当の努力家。学問の神様として知られる「菅原道真」よりも「知識があるはずだ」と自負するほど、勉強の才能には自信があったようです。

歴史物語「今鏡」には、「左の大臣は、御みめもよくおはし」とあるので、結構美男子だったみたい。

「日本史の美男子選手権」では、前回の在原業平は「美男子だけど勉強はできない」だったので、この時点では彼の方が一歩リードってところですかね。

(まぁ、業平の評は官撰の歴史書「三代実録」。頼長は物語での評価なので、信憑性は数段劣りますけどね)


美男子で、努力家で、天才政治家、そして摂関家の御曹司。親の七光りも受け、17歳の若さで内大臣、30歳で左大臣と、人位を登りつめていきます。

なんとも完璧で順風満帆な華やか人生ですが、そんな彼にも“欠点”と“特異点”があります。


彼の欠点・・・・それは「性格」。

頼長の性格を一言で表すと「クソ真面目」。

クソ真面目で努力家・・・・「人として結構じゃないか」と思れるかもしれませんが、彼の困ったところは、「それが度を過ぎている」ことであり、そして「それを他人にも押し付ける」ところにあるのです。

彼は蔵書家として知られているのですが、その蔵書を入れる書庫の完璧さといったら、ありません。

完璧に分類し、完璧に整理し、そして壁には石灰やカキ殻を塗布して補強するという徹底ぶり。

完璧。あまりにも完璧。

努力家は、度を過ぎると完璧主義になります。それを押し付けられたら・・・・たまったものではありません。

ある時、公務に遅刻してきた人がおりまして。

「遅刻とは何事だ!そこに直れ!」と、頼長サン、もうカンカンに激怒。

で、何をしたのかと思えば・・・・その遅刻してきた者の家を、打ち壊して燃やしてしまったのでした(!)

「お前が遅刻をするのは、家があるのが悪いのだ」ということですかね(汗)

他にも、道をすれ違う時に相手がマナーやエチケットを間違えると、「けしからん!」と揉め事に発展させたり、自分たちの牛車の前を通過した平家の一行を、「無礼だ!」と責め立てて車を打ち壊してしまったり・・・・怒りの沸点が低い上に、爆発力が尋常ではありません。

「愚管抄」にも「腹黒く、よろずにきわどき人」と評され、つけられたあだ名が「悪左府(あくさふ)」。

平安時代限定で「上司にしたくない人ランキング」をやったら、間違いなくトップ3に入るイヤなヤツでしょうね(他の時代も入れると、クセの強いのが山ほどいるからなぁ・・・・でも、上位には入りそう^^;)


そして、頼長の特異点。

それは、大の「男好き」。

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2011年1月 4日 (火)

むかし、をとこありけり

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くぐるとは

― 在原業平(古今和歌集・百人一首) ―

《神々がまだおわした神代の時代でさえ、こんな奇跡は聞いたことがないだろう。龍田川が舞い落ちた紅葉を浮かべて、鮮やかな唐紅の絞り染めになっているなんて》


いにしえの「飛鳥・奈良」の頃から「江戸幕末」の世までの1300年あまりで、「いちばんの美男子」って、誰だろう?

いわば「日本史の美男子選手権」。

そんなイベントを開催しようものなら、必ず選ばれる(というか外すわけにはいかない)人物に、「在原業平(ありわらのなりひら)」が挙げられます。

西暦800年代、平安時代前期の貴族で、冒頭の和歌(古今和歌集・百人一首)で知られる「六歌仙」の1人。

というわけで、新春一発目の歴史ネタは「平安時代」でやってみます。

「来年は源平・戦国・幕末・忠臣蔵以外の時代もネタにしたい」という、去年書いた抱負を早速達成です(笑)

ただ、ワタクシ日本史は大好物ですが、平安時代(と明治以降)が超苦手・・・・。

でも、何とか知っている所がいくつかあるので、そこをまず書いておいて、後日の道標・踏み台にしようという魂胆。

以下、理解や表現が稚拙なところがありますけど、どうぞご容赦クダサイ。


在原業平。正式には、在原朝臣業平(ありわらの・あそん・なりひら)。

彼は、泣くよウグイスの平安京遷都を行った「桓武天皇」の“ひ孫”に当たる、やんごとなきお血筋にあらせられます(母親が桓武天皇の娘なので、“孫”にも当たる)

しかし、お祖父サン(平城天皇)が起こした「薬子の変」に、お父サン(阿保親王)も連座して罰せられておりまして。

阿保親王の王子たちは、みんな「在原(ありわら)」の姓(かばね)を頂戴して、臣籍降下させられてしまいました。

その中の一人が、親王の第五子だった業平。

ゆえに彼は「親王(天皇の子孫)」でも「王(天皇の親戚)」でもなく、「朝臣(臣下の最高位)」という身分となったのでした。


彼の美しさは、「王統の貴公子だから」とか「歌の達人だから」という“いかにもな設定”をタネに、腐女子的妄想で膨らませたものではありません。

『三代実録』という官撰の歴史書にも書かれている、証明書つきの美男子なのです。

そこに書かれた表現は「体貌閑麗(たいぼうかんれい)」・・・・身のこなしが涼やかで、物静かで、風流で美しい、エレガント系美男子。

ただし「略無才覚 善作倭歌(勉強は出来ないけど、歌は上手い)」ともあるので、秀才タイプの美男子ではなかったみたいです。

彼の武勇伝は、その美しさと歌の才能で、時の権力者・藤原氏の、唯一の年頃の娘だった藤原高子(たかいこ)のハートをゲットすることから始まります。

唯一の年頃の娘ということは、「娘を天皇に嫁がせて、岳父となることで権力を握る」がお家芸だった藤原氏の、未来の繁栄のための至宝。

そんな藤原氏の娘を、業平はキズモノにしようとしているわけです・・・・なんせ、業平は臣籍降下している=皇族ではない=藤原氏の眼中にないのだから(!)

ヤバイと思ったのかどうか。世間に熱愛と密会が発覚すると、彼女の略奪を試みるという、「おいおい藤原氏に楯突くのかよ(汗)」という、ビックリな闖入話に発展。

しかし、おんぶして逃亡している途中で見つかって、取り返されてしまいました・・・・。

一説には、これがアダとなって降格人事を受け、東下りをするハメになった・・・・とまで言われていたり。


彼のアバンチュールは、これだけで終わりません。

伊勢神宮に仕えていた斎宮・恬子(やすこ)内親王がゾッコンになってしまった、なんてお話が続きます。

斎宮というのは、未婚の皇女から選ばれる人で、巫女というよりは神様のお嫁サン的役職。
もちろん異性交遊は絶対タブー。神様を裏切る不倫となる、おそろしい行為です。

でも、ダメだというのに、ある晩ひそかに訪ねて行って、業平と一緒に短い時間を過ごしてしまいます・・・・。

「あれは貴方が来たの?私が行ったの?夢だったの?本当だったの?」と問い掛ける(君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか)、甘ったるい和歌が花を色添え。

風流な貴公子の色恋話ったって、ほどがあるでしょ・・・・と言いたくなるほどのアバンチュールです。

この2つのエピソードは、『伊勢物語』という書に「むかし、をとこ(男)ありけり」として書かれていて、「業平が」と名指しでは記載されていない話なのですが、当時の人たちは「業平の武勇伝」として語り継いでいたようです。

こんな香ばしい色恋の数々から、例の歴史書には「体貌閑麗」に続いて「放縦不拘(好き放題にやってのけた)」とまで評されたりしています。

ゲットした女は、お后候補に斎宮。

手の届かない高嶺に実った禁断の果実を、見事にもぎ取った在原業平。

彼こそは、絶世の美男子であると同時に、筋金入りの色好みだった・・・・と、言えるわけです。すご過ぎですなー。


ただ、業平を単純に「色好み」と決め付けるのは、少々過ぎたることだ・・・・とする見方がありまして。

それは、業平の和歌を読めば分かるんだとか。

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