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2011年2月25日 (金)

40年サイズの怨念服


小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆきまたなむ

― 貞信公(百人一首)―

《小倉山の紅葉よ、もしお前に趣きを理解する心があるなら、(醍醐天皇の)行幸があるまで、散るのを待ってくれないか》



延喜3年(903)2月25日、前右大臣で大宰権帥の菅原道真が、流謫の身のままこの世を去りました。

ちょうど今日が命日(旧暦ですけど)

というわけで、「平安時代をやろう企画・第3弾」で取り上げた「菅原道真」の続きをやります。


ただし、主に取り上げるのは違う人になるので、今回は「第3弾の後半」ではなく「第4弾」になります。

その人こそ、貞信公。この方が何者か・・・・については、後ほど触れます。


菅原道真の死後、旱魃や洪水など全国で天変地異が起きて、「道真公の祟り」が噂されていく中。

その恐怖は朝堂をも蹂躙して、時の権力者たちを奈落のどん底に叩き落すのですが、これがまた凄まじい。

いい機会なので、いちいち列挙してみようと思います。

名づけて「菅家版デスノート」(笑)


††††††††††††††††††††††††

■藤原定国(ふじわらの・さだくに) 延喜6年(906年)

大納言。40歳で急死。

「菅原道真が謀反の疑いで左遷される」という情報をキャッチして、道真のよき理解者であった宇多法皇は、慌てて醍醐帝のもとに向かうのですが、それを“滝口の武士”を使って御所の門前で阻止したのが、この人。

それが道真公の怒りに触れちゃった・・・・と言われてるとか、言われてないとか。

ぶっちゃけ、彼は職務を全うしただけ。
なので、「道真の祟り」で死んだと見做されるかどうかが微妙です。
なので、彼を1号とするかどうかは意見が分かれるところ。

ただ、この年(延喜6年)に醍醐天皇は、連座して流刑されていた道真の子供たちを恩赦して、長男・菅原高視(たかみ)を大学頭に復しています。

国定の死で道真を連想したのか?
それとも、ほかに何か思うところがあったのか?

一応、参考までに。


■藤原菅根(ふじわらの・すがね) 延喜8年(908年)

参議。享年53。

さっきの藤原定国と一緒に宇多天皇を門前で阻止した人。
ですが、彼の場合はちょっと事情が違います。

彼は、道真に推薦されたおかげで「春宮侍読」という皇太子(=敦仁親王=醍醐天皇)の先生として抜擢されました。

いわば、彼にとって道真は恩人。
つまり「道真を助けようとした宇多天皇を閉め出した」というのは、「恩を仇で返したヤツ」となるわけです。

なので、定国とは違って、明らかに「道真公の祟りで死んだと思われた」みたい。

最期は、落雷にあって死亡。この死に方も・・・・。


■藤原時平(ふじわらの・ときひら) 延喜9年(909年)

左大臣。享年39。

言わずと知れた菅原道真のライバルで、道真を失脚させた張本人の1人。

藤原国定(1番目)、藤原菅根(2番目)で恐怖が高まったところを、狙い撃ち。
一番憎いヤツを3番目にヤるなんて、道真公もお人が悪い・・・・。

かなり意欲的な人でして、「延喜式の完成」「荘園の整理」をマニフェストとして活動していました。
今で言うと、憲法改正と構造改革でしょうかね?(笑)

まだ関白になっておらず、祖父も父も就任しているので、それを心から欲していたみたい。
が、志ならずに死去。道真の怨霊を恨んで怨霊になりそうな気配さえします(苦笑)


彼の死の直前、天台の高僧・浄蔵を呼んで、悪霊退散の祈祷をやらせたのですが、両耳から1匹ずつヘビが出てきて、それを退治しようとする浄蔵に「時平の悪事」を挙げて懇々と説得してきます。

やむなく浄蔵が引き下がると、時平が狂死。

坊主を説得してしまったわけです。なんて怨霊だ・・・・。


■源光(みなもとの・ひかる) 延喜13年(913年)

右大臣。道真を失脚させた張本人の1人。

前回の政争劇で紹介した、源氏が押し上げようとしていた「源氏の期待の星」。
道真が失脚した後、見事に右大臣の後任をせしめ、オイシイ思いをしていた人。

彼の最期は、結構なホラー。

鷹狩に出た際に、乗馬したままあやまって沼地にハマります。
そこが底なし沼になっており、脱出することができずに溺死。
遺体も上がらず、その後の姿を誰も見ることはなかったとか(怖いわっ)

関係ないけど、「鷹狩」ってところに「ああ、源氏って武家なのね」という感じがしますw
それとも、源光がアウトドア派だったのかな(笑)

#時の帝・醍醐天皇が「鷹狩」が大好きだったので、「権力者の嗜み」だった・・・・ってのが近かったり?
ゴルフ接待ならぬ、鷹狩接待。風流なのか人間くさいのか・・・・。


■三善清行(みよしの・きよゆき) 延喜18年(918年)

参議兼宮内卿。文章博士。享年72。

道真の属していた「菅原学閥」と張り合っていた、「大蔵学閥」の人。
つまりは「菅原下ろし」を盛大にやっていた1人。

道真が失脚した後は、「意見封事」という政策論を上申して、しきりに「第二の道真たろう」と狙っていたようですが、結局は参議止まりに終わりました。

出世街道をひた走る道真に「アナタ、やり過ぎですよ。周囲に恨まれてますよ。引退なさったら?」という手紙を送りつけています。
これを「親切」と見るか「イヤミ」と見るか「瀬踏みをしていた」と見るかは、意見が分かれるトコロ。


さっき時平の段で悪霊退散の祈祷をした高僧・浄蔵は、彼の息子。

浄蔵が作った結界に守られて、齢七十を越えても(祟られることなく)生きていたのですが、息子が熊野に詣でている留守中に護符が剥がれ落ちてしまい、その隙を道真公に突かれて死亡。

この異変に気がついた浄蔵が、急ぎ引き返してきたのですが、すでに5日も経っていて、間に合いませんでした。

そこで、“あの世との境目”と言われる「土御門橋」に父の遺骸を運び、「死後七日目まで生き返らせる」という秘術を行って生き返らせ、話し込んで今生の別れを惜しんだというエピソードが残されています。

これが「(一条)戻り橋」の名前の由来。

清行は西(極楽浄土の方角)に向かって座り、念仏を唱えながらタイムリミットを迎え、安らかに死んだそうな。


■保明親王(やすあきらしんのう) 延喜23年(923年)

醍醐天皇の皇太子。享年21。父に先立っての夭折。

薨去された年が、923年。道真の死から20年が過ぎてます。
というか、生まれたのが道真が亡くなった年という・・・・。

母親が、藤原穏子。道真を追放した時平の妹。
父親は、醍醐天皇。道真が左遷された当時の天皇。

そして、立太子に推したのが、藤原時平。

病気らしい病気もしてない中での突然死だったので、醍醐天皇の衝撃も相当だったみたい。

#余談も余談ですが、この2年前の延喜21年に陰陽師「安倍晴明」が誕生しています。
いや、伏線でもなんでもなく、ホンマに全く関係ない話。
さっき「戻橋」の話を出したので、一応触れておこうかと・・・・ね(^^;


■慶頼王(やすよりおう) 延長3年(925年)

さっきの保明親王の第一子。つまり醍醐天皇の嫡孫。5歳で死去。
母は、時平の娘・藤原仁善子。

保明親王が急死した時、「もしかして菅原道真の・・・・?」と、朝廷もようやく気がついた(?)みたい。

そこで、醍醐天皇は「道真追放の宣旨」を破棄。
さらに道真の官職を「右大臣」に復して、生前より一階昇進の「正二位」を追贈。
道真を追放したことを白紙に戻そうとしました。

ここに来て、ようやく菅原道真の「無罪」が確定したわけです。

これらの動きは、新たに立太子した慶頼王を守るための“厄除け”だったと見ることができるのですが、しかし道真公は許してくれなかったようで、ついに夭折。
「時平の血筋に皇位は与えないからな!」という恨み言葉が聞こえてきそうです。

代わって、保明親王の同母弟・寛明親王(2歳)が立太子。

「今度こそは守りきらねば!」と、3歳になるまで昼夜問わずに灯を燈して、幾重にもめぐらせた御張台の中で育てたとか。かなり神経質になっていたみたい。

その甲斐があったのか、この子は無事に育って、後に「朱雀天皇」として即位。
この方の在位中は、平将門の乱や藤原純友の乱などが起こり(承平・天慶の乱)、富士山も噴火したりしています。

それにウンザリしたのか、後に仁和寺で出家して、同母弟の成明親王(後の村上天皇)に譲位。
まぁ、道真公の祟りではないんだろうけども・・・・。


■藤原清貫(ふじわらの・きよつら) 延長8年(930年)

権大納言民部卿。享年63。

「日照り続きによる水不足」を閣議するため、左大臣・忠平以下が御所の清涼殿に集合。

「神泉苑の水でも開放せねばなるまい」「ぇー、平民のためにー?雨乞いでいいじゃん」なんてワイワイ言っていると、午後1時ごろ、突如として暗雲がたちこめました。

「おっ、ひと雨くるかな!?」と期待を寄せていたら、つんざくような雷鳴が轟いて、稲妻が藤原清貫を直撃。

衣服は破れ、胸は“ざくろ”のように裂け、黒焦げになった変わり果てた姿が地面を転がったのでした。

巻き添えを喰らった公卿・官人も多数。
右中弁・平稀世(たいらの・まれよ)は顔面に直撃を喰らって重傷。
右兵衛佐・美努忠包(みぬの・ただかね)は髪が炎上。
右兵衛佐・紀蔭連(きの・かげつら)が腹部にダメージ。
安曇宗仁(あずみ・そうじん)も膝に負傷。
そして、次々にショック死。

後に「清涼殿の落雷事件」と呼ばれる大惨事が、一瞬にして起きたのでした。

藤原清貫は、道真が左遷された後、宇佐八幡宮に遣いとして参詣したついでに、大宰府に立ち寄って道真に会ったのですが、その様子を「反省してないみたいだよ」と醍醐天皇に報告し、「だから祟られたんだね」と噂されたみたいです。

ちなみに、藤原清貫は在原業平の孫(娘・美子の息子)です。


■醍醐天皇(だいごてんのう) 延長8年(930年)

「清涼殿の落雷事件」で、すっかり気が動転してしまった醍醐天皇は、事件からわずか2ヶ月後に崩御。享年46。

わずか8歳の寛明親王が即位し、「朱雀天皇」が誕生しました。


この後、醍醐天皇は地獄に堕ちた・・・・という伝承が残っています。

一般には、醍醐天皇は「延喜の治」といって、聖君として讃えられているんですが、それとは正反対ですなぁ。

(聖君だからこそ、後醍醐天皇が「あやかりたい」と名乗りにしたわけですから)


■藤原保忠(ふじわらの・やすただ) 承平6年(936年)

近衛右大将・大納言。時平の長男。享年47。

左大臣・時平が長生きしていれば、次期摂関の有力候補でしたが、父が早逝して叔父の忠平に権勢を持っていかれてからは、家運は衰退の一途。

「これも道真公の・・・・」と気が気でなかったようで、病床に伏せた時、僧侶を招いて加持祈祷を行わせたのですが、薬師如来の読経中に「宮毘羅大将(くびらたいしょう。薬師如来の眷属)」の名前を聞いて、過剰反応。

「く、くびれ大将!?大将をくびるだとッッッ!!??」

自分(保忠は右大将)をくびる呪文と聞き間違えて、恐怖のあまり悶絶。頓死してしまったのでした。

空耳で亡くなるなんて、相当ノイローゼだったんですな・・・・。


■藤原敦忠(ふじわらの・あつただ)  天慶6年(943年)

従三位・権中納言。享年38。

幼い頃から、自分の一家が道真公の怨霊に殺されてきたのを見て育ったせいか、「自分は長生きできないだろう」と最初から諦めていたみたい。

恋と風流に生きる道を選び取って、短い人生を謳歌しました。

具体的には、高嶺の花を摘み取るような恋。

これって、どこかで・・・・?
そう、祖父の罪に連座して臣籍降下させられた、在原業平と同じ。破滅型の恋です。

実は敦忠、業平のひ孫なんですねー。
ひい祖父サン・業平の美貌と歌の才と恋に生きる素質を受け継いだ貴公子というわけです。

業平の孫娘が美人で、藤原国経というジジイの所に嫁いでいたのを、惚れ込んだ時平が略奪婚したんだそうな。
(時平にとって、国経は伯父サン)


ちなみに、藤原敦忠は三十六歌仙の1人で、百人一首にも選ばれてます。

四十にならずに亡くなったことから「北野(道真)のお嘆き(恨み)」が原因と歴史物語『大鏡』で言われているのですが、そうではなくて百人一首の・・・・というネタがあるんですが、結構オイシイ話なので(笑)、今日はやめて後日に取っておきます。

(色々と詰め込めるから、どうやって書こうか構想が難しいんですけども・・・・)

††††††††††††††††††††††††


ワタクシの調査では、デスノートに名を書かれていた人は以上。
さらっとやるつもりだったんですが、長くなってしまいました・・・・。

40年に渡って呪い続け、ここで挙げただけでも14人を葬り去るとは、道真公の執念・怨念は恐るべし・・・・といったところです。くわばら、くわばら・・・・。


しかし、ここで冷静に考えてみると、以下の2つの疑問にぶち当たります。

①はたして「菅原道真」という人間は、ここまで執念深くて慈悲のカケラもない、濡れ衣に怒り狂うようなタチの人間だったのだろうか?

②こんな恐ろしげな悪霊が、なんで後に『学問の神様』なんていう、急にポジティブな存在になったのだろうか?

①について。

彼が大宰府に流されてから、どんな気持ちでいたのかを、彼が詠んだ詩から読み取ってみると・・・・。


「不出門」
一従謫落就柴荊
萬死兢々跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行

《流されてあばら家に入ってからは、万死にあたる罪を恐れてひたすら謹慎している。
都府楼は瓦の色をわずかに望見するだけ。観音寺も鐘の音を聞くだけ。どちらも行ったことはない。
心は雲を追って都へ向かうけれど、いま外から私を迎えにくるのは満月の光ばかり。
私を縛るものは何もないけれど、この門から出てゆくなど、たとえ寸歩でも何でできようか》


「九月十日」
去年今夜侍清涼
秋思詩編独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香

《去年の今夜は、清涼殿に伺候して、「秋思」のお題を頂いて「痛切な哀しみの詩」を詠んでおりました。その時に帝から賜った御衣は、今(配流先の)ここにあって、捧げ持っては日々残り香を聞いております》


「月のあかき夜に」

海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ

《海よりも深き水をたたえていても、水が清ければ水底は照らされるように、自分の清い心も月が照らしてくれるだろう》


恨み辛み・残念無念・・・・というよりも、諦めや観念に近い心境のような?

少なくとも、「絶対無実を勝ち取ってやる!見ておれ時平!」という、捲土重来を期して帰京し政敵を倒す!というような気配は見受けられません。

あの悪霊のやりたい放題と、生前の道真公の人物像は、あまりにもかけ離れている。そんな感じがします。

これが①の答え。となると、新しい疑問が出ます。

③何故このような彼の人柄から、あんな恐ろしげな悪霊が生まれてしまったのか?

怨霊信仰は後世の人々が作る迷信だとしても、あそこまで怪異に富んだ存在にする必要が、どこにあったんでしょうか?


そこで浮上してくるのが、藤原忠平(ふじわらの・ただひら)。時平の9歳年下の弟クンです。


忠平は時平の実弟ですが、実は菅原道真と親しい仲。

何せ、妻が道真の姪っ子・源順子(異説もあり)

この女性は宇多天皇の養女として嫁いだとも言われ、忠平は「宇多天皇の廷臣グループ」ということになります。

つまり、宇多天皇の側近だった菅原道真とは親しい仲となり、「醍醐天皇の廷臣グループ」だった時平とは争う仲・・・・というわけです。

(時平による道真の追い落としは、宇多天皇―藤原忠平ラインに対する牽制だとも取れます)


政敵・時平が亡くなった後、忠平は藤原の氏長者となり、摂政・関白を歴任して、いわば「時平の家系」を乗っ取る形になりました。

時平の急死で運良く権力を握れた忠平にとっては、嫡流(時平の子供たち)や、時平の孫を抱えている醍醐天皇が、是非とも邪魔。

そこで、「時平の一族は道真公の怒りに触れて、祟られている」と言いふらし、政敵の自信や命運を縮めたのではないか・・・・。

つまり、忠平が道真を利用して、ライバルを蹴落としたのではないかというわけです。


ワタクシも、この説は「一理あるな」と思うのですが、でも最初から道真を利用しようと思っていたのではなく、忠平も「道真公の怨霊の仕業・・・・?」と恐れていたのではなかろうかと思います。

じゃあ、いつ「道真公の怨霊」を思いついたのか?


延長3年(925年)、道真を右大臣に復し、正二位を追贈したのは、さっき触れたとおり。

慶頼王を立太子するための厄払いのためですが、これは自身の厄払いでもあったのかもしれません。

というのも、翌年の延長4年、忠平は左大臣に昇進しているから。

「兄と同じ左大臣になる前に、自分の厄払いを・・・・」が目的で、道真公の名誉を回復したのではないかと。


そして、延長8年(930年)の「清涼殿の落雷事件」。

忠平は左大臣として事件を間近で目撃していたわけですが、場内の公卿・官人が恐怖で混乱する中、

「自分には祟りはなかった・・・・。ああ、道真公の名誉を回復しておいて良かったなぁ」

と、一人胸を撫で下ろしていたのかも。

その後に亡くなったのは、醍醐天皇と、時平の2人の息子(保忠と敦忠)

醍醐天皇以前と保忠の死に方は、どこか違う属性を感じます。

醍醐天皇以前は、無実の道真に濡れ衣を着せて追放したことに対する、良心の呵責に耐えかねた「罪意識の告白」という面が見られるけれども、保忠の死に方は「恐怖からくるノイローゼ」ですから、それが感じられません。

それもそのはず。道真が亡くなったのは、保忠が4歳の時・・・・むしろ、彼の死が「なんで道真と関係するの?」と不思議に思ってもおかしくないくらい、その祟りとは関係がないです。


ここから考えられるのは、忠平が「清涼殿の落雷事件」で自分の前途に自信を持ち、邪魔な時平の息子たちを潰すために、道真の祟りを吹聴するのを思いついた・・・・ということ。

そのためには、怖いぞ怖いぞと、クローズアップせねばなりません。

③の答えは、忠平が政治的に利用するために、道真公の怪異は膨らみ続け、実体を越えてしまった・・・・というあたりだと思います。


となれば、②の答えは多分、祟り神としての利用価値がなくなったから。

時平の子が権力に手が届かない状態になれば、道真公が怨霊である必要がありません。

北野天満宮が創建されたのは、天徳3年(959年)。忠平の息子・師輔が右大臣になった後。

すでに摂関家の嫡流は、忠平の系統で定着していました。

「もう、祟り神としての役目は要らないよな・・・・これからは我が家に障りのないように、ポジティブな存在になってもらおう」

と思い立って、北野天満宮を創建し、「守り神」に属性が変わったことを世間にアピールした・・・・。

それが、「怨霊」から「学問の神」に変貌するきっかけになったのではないかと、ワタクシは思います。


道真公の怨霊は、忠平が政治的に利用するために膨らみ、利用価値がなくなったから守り神に祭り上げられた。

これがワタクシの暫定的結論ですが、これを生前の道真が聞いたらどう思うかなぁ・・・・と、彼の命日に日記アップしてみました。


「んー、下の下」と、落第点を喰らいそうな気が、かなりしますけどね(笑)



余談、その1。


時平が道真公に狙われたのは、実は2回。

1回目は、御所にいる時に、道真公が登場したのです。

この時の時平が勇ましい。

「お前、右大臣だったよな?俺は左大臣、お前より1つ上だ。敬意をもって接しない道理が、お前にあるのか!?頭が高い!」

と一喝して、退散させています。

もっとも、これは時平の勇猛さに恐れをなして・・・・ではなく、天皇の御前だったから引き下がったんだよと、歴史物語『大鏡』には書かれています。

うーん。時平を褒めてあげてもいいのに・・・・(^^;


余談、その2。


なんとなく。

「アナタの死後、日本最大級の怨霊にされたんですけど、どう思います?」って聞いたら、

「その手もあるね。だけど私のサイズにあった服ではないようだ」

って答えるかな・・・・と、ふと思いました。

いや、「銀河英雄伝説」という小説に登場するヤン提督の台詞ですけど(笑)
(バーミリオン会戦で、ラインハルトの旗艦を何故攻撃しなかったのか?との問いに対する答え)

前回、道真はタフガイだった・・・・と書いたけれど、これは「芯が通った」「反骨の」という意味。

「政策はできるけど政局は苦手」そうな面といい、なんかヤンを思い出してしまうんだよなぁ。

どの辺まで似ているのかって考察を・・・・そのうちできたらいいな(何)


余談、その3。


冒頭の百人一首、詠み人の貞信公とは、藤原忠平のこと。

宇多上皇が大井川に御幸された時、「キレイだなー。これ息子(醍醐天皇)にも見せたいねー」と言ったのを受けて、詠んだ歌。

宇多天皇と醍醐天皇は、あんまり仲が良くなかったみたい。

というか、醍醐天皇の在位は12歳からで、そんな多感な時期に、あれやこれやと政治に口を出してくる父がウザくて仕方がなかったらしい。

そんなギクシャクしていた親子の間を取り持とうと、こんな和歌を作った・・・・と考えると、忠平ってけっこういいヤツw

(いや、忠平は「寛厚の長者」と呼ばれて、人当たりはかなりいい人だったらしいので、「道真を怨霊として利用した」って方が通説とは異なる人物像なんですけど)


そういえば、百人一首に選ばれている菅原道真の和歌も、「紅葉」が入っていて「宇多天皇のために」詠んだものでしたな。

道真と忠平・・・・気が合うのか、百人一首の撰者が狙ったのか・・・・。



余談、その4。


反乱を起こして敗れ、道真とともに最大級の怨霊に数えられる平将門(たいらの・まさかど)は、忠平の家臣。

忠平の家臣だったために、訴訟に勝つことができたとも言われ、このために故郷に戻ったら英雄扱いのカリスマを光らせることができました。

これが、めぐりめぐって反乱の首魁になる遠因となり、討ち取られて怨霊となったのはご存知のとおり。

忠平。なんとも、怨霊に縁のある人です・・・・。

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