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2011年2月11日 (金)

スミレとウメのタフガイ

このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに

― 菅家(百人一首) ―

《此度の旅では、幣(ぬさ。旅の安全祈願に捧げる織物)を忘れてしまい、捧げることができません。この手向山の見事な紅葉を錦の幣の代わりとします。どうぞ、神のお気に召されるように》



日本の神サマは“八百万の神々”なんて呼ばれて、その多さに混沌としそうなんですが、大きく分けると4つに分類できたりします。

①いにしえの神々。
②歴代天皇や祖先(特に藩祖)を祀った神社の神々。
③怨霊信仰から祀られた神社の神々。
④明治以降に創られた国家神道で祀られた功臣。


①は、日本書紀、古事記、先代旧事本紀、古語拾遺、風土記なんかの古書に登場する神話上の神サマ。
アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ、サルタヒコ、アメノヒボコなどなど。
さらに天津神・国津神・産土神なんかに分類されていくんですが、今日は関係ない話なので「いにしえの神々」で一括りにしておきます。

②は、実在の人の功績を称えて、神として祭り上げられたもの。
いくつか挙げてみれば、日光東照宮には「東照大権現(徳川家康)」、豊国神社には「豊国大明神(豊臣秀吉)」、上杉神社には「上杉謙信」が、それぞれ祀られている。そういうカテゴリーです。

④は、②と一緒にしてもいいのかもしれないけれど、明治以降の国家神道って、それ以前とは性格が(属性が?)違うような気がするので、ワタクシは分けて考える方法を採りたいです。
「東郷神社(東郷平八郎)」「乃木神社(乃木稀典)」「靖国神社」などです。
「明治神宮」や「平安神宮」が、カテゴリー②なのか④なのか?・・・・は、延々と整理中。まぁ、どっちでもいいんですが。

③は、失脚させられたり敗北したりして、無念のうちに死んでいった者たちの御霊を祀った神々。
②とは「相当の恨みを持ち、かつ祟りを起こしそう(あるいは起こした)」という違いがあります。
代表的なのは「上下御霊神社(早良親王、伊予親王、橘逸勢など)」
そして「天満宮」。

天満宮に祀られているのは、天神様こと、菅原道真公。


というわけで、今日は「平安時代をやろう」企画第3弾w

ここまでは今回の主役・菅原道真に入るための前置きなのでした。ああ、長かった。


菅原道真は、9世紀から10世紀、平安時代初期の人物。

第1弾で取り上げた「在原業平」とも親しかったそうで・・・・そんな時代です。

それにしても、道真は天才学者。一方の業平は、学問はからっきし。
まるで正反対なのに、面白いつながりですな・・・・。
(ちなみに、業平の方が20歳年上)


菅原氏は、もともとは土師氏。

土師氏の遠い祖先は野見宿禰(のみのすくね)といって、いま不祥事続きでえらいことになっている「相撲」の起源となった英雄です。

朝廷に対して挑発的な態度を取った當麻蹶速-トウマノケハヤを、相撲の取り組みで倒し、アバラをバキバキにしてブチ殺しました。

この功績で天皇家に仕えることになった後、“埴輪を作る役職”についたために「土師」を名乗っていたのですが、桓武天皇の時代に「菅原朝臣」の姓を賜り、以降「菅原」を名乗ることとなったのでした。


相撲、埴輪・・・・と関わってきた菅原氏(土師氏)は、平安時代には学問の家門となります。

道真は、ご存知のように、こっちの分野に関してバツグンの才能の持ち主。

18歳で「文章生試(もんじょうのしょうし・・・・漢詩と歴史の教授。定員20名)」に合格(当時の最年少タイ記録)
26歳で「方略試(ほうりゃくのためし)」に合格。

この方略試。奈良から平安時代までの230年ほど開催された論文試験なのですが、合格した人は、なんとたったの65人。
単純計算で3~4年にひとりの合格率という超難関。それを一発で突破したのだから、とんでもない英才です。

「最難関試験に合格した」から、後に「学問の神様」となったり、学生服のブランド名(カンコー学生服)になっていったりするわけなんですねー。


天才学者・菅原道真。

この言葉から「痩せ枯れた」「弱々しい」なんて形容詞で想像してしまいたくなりますが、実物の道真は、すんごいタフガイ。

彼がもうけた子宝は、なんと23人。さらに、当時最大級の夜の街だった「江口(大阪府)」にも足繁く通っていたというのだから、結構精力的です。

「在原業平とは正反対なのに親しかった」と書きましたけど、違いますね。似たもの同士です(笑)


もっとも、タフガイなのは情愛だけでのことではなく、彼は“気骨の士”でもありました。

彼が都を去る時に詠んだ有名な一句、

「東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」

最後の「忘るな」とは、「忘れるなよ」という命令口調。
このあたりから、強く激しい気性を読み取れる・・・・という見方があるんですが、前にも言ったとおりワタクシ文学の素養がないので、ここは紹介にとどめて、歴史的に見てみると。


仁和3年(887年)、「太政大臣・藤原基経が、朝廷に対してストライキを起こす」という大事件が勃発しました。

歴史上「阿衡の紛議」と呼ばれているもので、かいつまんで説明すると、関白に任命する詔に書かれた「阿衡(あこう)」という言葉の解釈をめぐるって起きた事件。

「阿衡」は「関白」を表す言葉である一方で、「お前に権限は無い!」との意味にも受け取れる言葉だったのです。

「俺に政治をやるなと言うのか!」と、基経もう大激怒。詔を書いた文章博士・橘広相(たちばなの・ひろみ。基経のライバルでもあります・・・・)の処罰を要求して、職務をすべてボイコット。政務は滞り、政治は大混乱に陥りました。

これはぶっちゃけ難癖以外の何者でもなく、時の帝・宇多天皇は周囲の学者に「阿衡って何か問題あるの?」と困惑気味。でも、みんな太政大臣を恐れて「問題あり」と解答して逃げていきます。

ならば仕方がないと橘広相を更迭した上でなだめても、「更迭なんて甘い!流罪にしろ!」と突っぱねられる始末(天皇の言葉なのに・・・・)

橘広相をお気に入りとしていた帝が困り果てていた所に、当時讃岐(香川県)に赴任していた菅原道真が急遽上洛してきて、基経を諌める書簡をしたためました。

要点は、以下の3つ。

①確かに「詩経」の意味では「阿衡」に権限はないけど、「漢書」ではそうではない。
②文章博士とて、全ての言葉の意味を完璧に理解するのは不可能。もし今回のことで橘広相を処罰すれば、同様の役職についているものが萎縮してしまう。
③橘広相は宇多天皇の即位に尽力した功臣。功績も血筋も才能も文句の付けようのない名臣を処罰するのは、貴殿のみならず藤原氏にとっても、得策ではない。

誰からも出なかった「漢書」の知識を持ち出し、天皇の意に沿って橘広相を庇い守りつつも、藤原氏の将来も心配する、見事な手紙。直言も直言で、学者としての職務を、きっちりと全うしています。

「すげー、菅家すげー」と、基経もいたく感激して、この騒動は一気に収束していったのでした。

(補足:一流は一流を好む・・・・というわけか、元から基経は菅家のファンだったみたい。こういう信頼関係の上で、道真の知識と技術がモノを言ったわけですな)

以上が「阿衡の紛議」のあらまし。

この事件は、天皇の宥めも突っぱねたことから「摂関家の力関係を見る象徴的出来事」と一般には解されているのですが、誰もがビビって意見できないでいる太政大臣に、堂々と諫言した菅原道真の気骨ある姿を、垣間見れることでも重要です。

というのも、この一件で宇多天皇は藤原氏を疎ましく思うようになり、また道真の才能と気骨を愛して重用するようになっていったからです。


菅原道真が任期を終えて京都に戻ると、翌年の寛平3年(891年・・・・最近帰国したタレントじゃないよ・笑)、関白・藤原基経が薨去。

基経の息子・藤原時平は、この時21歳。
年若いために関白には任ぜず(藤原の氏長者にもなってない)、宇多天皇は親政に邁進しはじめます。

重用された道真も、蔵人頭から始まって、左中弁、左京大夫、左大弁と、中央でどんどん出世を重ねていきます。

出世街道をひた走り、右大臣まで登りつめるのですが、最大の支持者・宇多天皇が「もォ、やだっ!」と駄々をこねて(?)醍醐天皇に譲位すると、反菅原勢力の攻撃が始まってしまうのでした。


当時、最高位の左大臣だったのは、藤原時平。次席が菅原道真・・・・はっきり言って邪魔です。ゆえに、朝堂の中の藤原派(第一党)が、まず反菅原勢力となりますが、それだけではありません。

朝堂の中の源氏勢力にとっても、道真が邪魔でした。

源氏は、序列第4位の「中納言・源光(みなもとの・ひかる)」を高位につけようと画策していました。問題は、誰を蹴落とすか?

第1位・左大臣の時平は、藤原摂関家の実力者ですから、これを狙うのは至難。
第3位・大納言・藤原高藤は、醍醐天皇の外祖父であり これまた至難。
でも、第2位の菅原道真なら、割りと手軽。しかも、こいつを排除すれば右大臣を狙えるのです。

道真は、少数与党どころか個人与党。周囲はみんな敵・・・・という状態に追い込まれていたのでした。


昌泰4年(899年)1月25日。

たまたま娘が、醍醐天皇の異母弟(斉世親王)に嫁いでいたことから、「斉世親王を立てるため、醍醐帝の追い落としを狙っている!」とイチャモンを付けられて、右大臣から大宰権帥に降格。大宰府へ左遷させられてしまいます。

2年後の延喜3年(901年)2月25日。菅原道真は、失意の中で亡くなりました。享年59。


ここから、身の毛もよだつ凶事が続き、「失意の中で亡くなった、道真公の祟りだ!」と恐れられたのは、よく知られている話。

なのですが・・・・ここから先もまた長くなるので、次回に持ち越しとして一旦幕を閉じようと思います。

えぇ、これで半分くらいですので(苦笑)

オハナシハツヅク・・・・いつになるか分かりませんが、宜しければオタノシミニ。



余談、その1。

宇多天皇が「もォやだっ!」と駄々をこねて、醍醐天皇に譲位した・・・・と書きましたが、そのブチ切れた原因は、彼の周辺環境にあったようです。

まずは、彼の生みの母、班子女王。
彼女は何かとお節介な人でして、宇多天皇の生活に、いちいち口を出してきたそうです。

さらに、彼の育ての母・藤原淑子は、藤原基経の妹。

宇多天皇が即位できたのは、実は100%藤原基経の尽力のおかげです。
というのも、宇多天皇は実は源氏として臣籍降下していたのを、基経が引っ張りあげてくれたのです。

なので、大恩人の妹である育ての母に、頭が上がりません。
そして、淑子はさらりと(ちゃっかりと)政治に口を出すタイプでした(笑)

公的なことは育ての親に抑えられ、私的なことは生みの母に握られ・・・・。

ならば内々のことは・・・・というと、妻は温子(関白・基経の娘。時平の同腹妹)、胤子(大納言・藤原高藤の娘。醍醐天皇の生母)、義子(文章博士・橘広相の娘)。
・・・・外戚を眺めると、息が詰まりそう。

そして、「一時は臣籍降下していた」ということは、彼の下にいる公卿たちは、かつて同僚だったわけです。

かつての同僚が、天皇に成り上がった自分を、どんな目で見ているのか?
これは憶測ですが、なんとなく信頼しきれないというコンプレックスを抱えていたのかもしれません。

そして、すでに触れたように、大恩人の基経もまた「阿衡の紛議」で信頼を失いかけていたわけで。

彼が菅原道真に目をかけたのは、才能に感心しただけではなく、「家族も旧知の者も信用できない」ことから、始まったのかもしれないですなー。

それにしても、憐れな宇多天皇(^^;


余談、その2。


「相撲」って言葉は、野花の「スミレ」が語源だったという説があるみたい。

スミレの花は、首がミスドのハニーチュロスみたいに“くりん”と、鉤状になっている野花。

そこを引っ掛けて引っ張り合って遊んだのが、語源なんだとか(もしくは、逆の説もあり=スミレの名の語源が相撲)

うーん、本当なのかねぇ?(^^;


ところで、スミレの花が好きだった人といえば、フランス皇帝のナポレオン・ボナパルト。

失脚してエルバ島に流される際、彼は「来年のスミレが咲く頃には帰ってくる」と誓いを立てた・・・・という話が残っています。

全くの偶然ですが、大宰府に左遷される際「梅の花」に「帰りたい」と嘆息した菅原道真と、なんとなく重なりますなぁ・・・・。


余談、その3。


太政大臣・基経がストライキを起こした事件。

“太政大臣”が仕事できない時は、次席の“左大臣”が代わりにやるもの。

なのですが、当時その職にあった人は「源融(みなもとの・とおる)」でした。

この人、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルになったと言われている風流人・・・・。

この時、彼はいつものように(笑)、賀茂川のほとりにある別荘で、お気楽極楽に遊びほうけていたのでした・・・・という裏話があったりします。

ダメじゃん・・・・。そんな人、左大臣につけちゃダメだよ・・・・。


余談、その4。


冒頭の歌の詠み人「菅家」は、言うまでもなく今回の主人公・菅原道真のこと。

もし「百人一首なんて、数えるほどしか覚えてないよ」という人が周囲に居たら、その中の1つが菅家の歌だと思って、たぶん間違いないです。

なんてったって、最後の句がインパクト大。

「神のまにまに」

まにまに・・・・ですよ。なんだそれ・・・・って感じです(笑)

「まにまに」は、漢字で書くと「随に」。「ご随意に」という時の「随」。

つまり「相手の思うように」という意味になるわけですな。

ちなみに、ワタクシが上も下も覚えているのは、数えてみたら7句だけでしたが、もちろん「まにまに」も入っております(笑)


あと、「とりあえず」は「とりあえずビール」のそれではなく、「取り合えない」という意味になるようです。

この句は、宇多天皇が宮滝行幸の際に、幣を忘れてしまって、「ど、どうしよう道真~!」と泣きついてきたのを、「美しい紅葉を幣とすれば良いではないですか」と助け舟を出した時の歌みたいです。

「阿衡の紛議」の時に、太政大臣・基経に直言の意見書を提出して助けた時と同じ。

宇多天皇にとって、道真は頼り甲斐のあるタフガイだったんでしょうかね。

やっぱ、青白い痩せ枯れた学者タイプって感じは、しないよなぁ・・・・。


(つづく)

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