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D-1:日本史

「歴史好き」なワタクシにとって、メインのネタ。本人は真面目にやってますが、マジで受け取らない程度の態度でお願いします・・・・。

2012年3月30日 (金)

ケイズセイサクノ日々

職場の友人に頼まれて、大河ドラマ「平清盛」に関係しそうな系図を作っておりました。

「歴史は地図と年表があるとイメージしやすい。飛鳥・奈良・平安は系図もあるといいね」というような会話からの流れで頼まれたのです。

きのう14枚ほど完成したので、プリントして渡してみたら「おお、すげー!」とお褒めの言葉を頂けました。

本から画像ソフトに書き写すだけの作業ですが、構図とか色々と苦労もあったので、もっと褒めてもいいぞよ(何)


せっかくなので、装飾と彩色を施して、blogにもアップしてみようという魂胆が、今日の日記です。

「平清盛」を視聴されている方は、気が向かれたら参考になさってみてくださいませ。

歴史はイメージさえ掴めれば、こっちのもんですよー。



ついでなんで、かるーく解説もつけちゃいます。

(赤い枠の名前は、今年の大河に出ている、あるいは出てきそうな注目株の人物です)


■藤原氏略系図

Photo_5

今週の放送で亡くなった「待賢門院璋子」サマと、「美福門院得子」サマの関係が分かるかなーという系図。

ドラマで名乗ったかどうか忘れましたが、実はお二人とも藤原氏。
藤原璋子サマと藤原得子サマなのですねー。

璋子サマの父(公実)と得子サマの祖父(顕実)が兄弟という、意外と近い関係。
鳥羽天皇の母も親戚筋で、璋子サマにとっては従兄弟にあたります。

藤原氏といっても摂関家とは違う傍系で、「望月の歌」で有名な御堂関白「藤原道長」の叔父の系統に列なります。

(ちなみに「鳥羽天皇の母は摂関家の娘じゃないの?」と思われた方。鋭い!このあたりにも、一時は「この世は望月の欠けたところもないようだよ」と詠うほど栄華を極めた摂関家が、この頃はもうボロボロだったのが伺えますね)


ついでに、先週の放送で亡くなった清盛の最初の妻・明子の系図(高階家)も載せました。

舅殿(高階基章)が「祖父の系統を辿れば紫式部にも繋がる」と言っていた通り、先祖には「源氏物語」で有名な紫式部がおります。

紫式部の旦那は、親子ほども年齢の離れた中年男・宣孝で、紫式部と結ばれる前に何人か子供がおりました。

そのうちの1人が、待賢門院璋子サマの母方の祖先となっています。


■桓武平氏略図

Photo_6

平安京遷都を行った桓武天皇の、何番目かの皇子・葛原親王の子が、平氏の姓を賜って臣籍に下ったのが「桓武平氏」の一派です。

このうち、高望王は肥沃な関東に下って統治する道を選び、「坂東平氏」の祖となります。

高棟王は京から離れず中央政権に残り、公家平氏(堂上平氏)と呼ばれる一族の祖となります。
今週の放送で登場した、清盛の正室・平時子(二位尼)の実家は、この公家平氏の出身です。同じ平氏でも、だいぶ遠い親戚です。


坂東に根を張った平氏は、平安時代の前期~中期頃にかけて「平将門の乱」と「平忠常の乱」という、大きな戦乱を起こしています。

将門のほうは平氏が一丸となって討伐し、早くに決着がつきましたが、忠常のほうは失敗。戦乱が長引いてしまいました。

すると中央から源氏が派遣され、ようやく乱は鎮圧。これを機に源氏が坂東で幅を利かせるようになっていきます。

そんな「源氏の我が物顔」がイヤになった平氏の一派が、伊勢國に流れて根を張り、伊勢平氏(つまり清盛たち一族)の祖先となった・・・・と言われているみたいです。

清盛たちは、平氏の傍系であるばかりか、坂東から逃げ出した一族でもあるわけで、藤原氏どころか同族(坂東平氏)からも低く見られていたのではなかろうかと、ワタクシは想像しています。

この点、武家政権を樹立させる意味においては、祖先が築いた名声と父(義朝)が築いた坂東の地盤を背負ってスタートできた頼朝と比べると、忠盛・清盛親子には大きなハンデがあった・・・・というのが、マイ平家パワーバランス論です。


ところで、この平安時代末期を彩った武家同士の争いって、「源氏vs平氏」の戦いだと思ってません?

よく「源平合戦」と言われるし、最終対決が「源頼朝vs平宗盛」だったので間違いとは言い切れないんですが、桓武平氏の系図を見ると、頼朝の側について戦った人たちが目につくかと思います。

源頼朝の舅・北条時政。頼朝側のナンバー2・平広常(上総介広常)。義経と口論した梶原景時。平敦盛を討った熊谷直実。etc・・・・。

「源平合戦」は、実質上は「坂東平氏」と「伊勢平氏」の戦い、つまり「平平合戦」だった・・・・と考えてみると、流謫の身である頼朝が「奢れる平家」を相手になぜ戦えたのか?坂東の武士たちはなぜ平家の元に集わなかったのか?鎌倉幕府の源氏公方が三代で滅びてしまったのはなぜか?のあたりが、見えてくるんじゃないかなーと思ったりします。

(余談ですが、忠常の子孫・平常兼を千葉県の方は注目!そう、この人こそ千葉氏の初代。千葉サンは坂東平氏だったんですねー)



■熊野別当略系図

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2011年10月12日 (水)

じしゅうなう

こんな芸能ニュースがありました。


ウド鈴木、初主演映画『一遍上人』で相方・天野こそ「僕の一遍上人」
http://www.oricon.co.jp/news/movie/2002604/


なんと、一遍が映画化!

主演はウドちゃんですか・・・・もしかしたら、適任かもしれない?(笑)


それにしても、一遍はマイナーな感じがあるので、今夜はこのへんを語ってみたいと思いますw


一遍といえば、鎌倉時代の僧侶で「時宗(じしゅう)」を開いた人物。

「時宗」とは、「鎌倉新仏教」の1つ。


・浄土宗・・・・・・(開祖:法然)
・浄土真宗・・・・(開祖:親鸞)
・臨済宗・・・・・・(開祖:栄西)
・曹洞宗・・・・・・(開祖:道元)
・日蓮宗・・・・・・(開祖:日蓮)
・時宗・・・・・・・・(開祖:一遍)

一般的には、この6派が「鎌倉新仏教」。


飛鳥~奈良時代の仏教は、なんだか「宗教」というより「哲学」みたい。

おカタいものだったのですが、平安時代初期に「最澄・空海」の二大巨頭が「そんなの守れるわけねーべ!」と緩めてくれたおかげで、貴族文化と交わっていきます。

そして武士の世となり、鎌倉時代に至ると、ついに大衆化。

日々の生活に忙しい大衆にも理解させ、身近なものに感じさせ、信じられるものにしよう・・・・と手を加えると、論理が論理でなくなってしまいます。つまり、教義が暴走します(笑)

こうして、大衆のために暴走した仏教が「鎌倉新仏教」。

そんな「鎌倉新仏教」のフィナーレを飾った宗派こそが、一遍が開いた「時宗」。

以降は分裂とマイナーチェンジを繰り返すだけで、「新しい仏教」はついに生まれなかったのでした。

つまり、最後の「変革の仏教」を生み出したのが、この一遍だったわけです。


> 映画は一遍上人が生涯を描いた絵巻『一遍上人絵伝』(国宝)を原作に、
> 一遍上人が熊野権現との出会いから京都釈迦堂での踊念仏の成功までの過程を描く。


熊野本宮でのエピソードから描かれるってことですか。

それは楽しみだw


一遍は、元々は伊予國(愛媛県)の豪族の生まれ。俗世での名字は河野サン。

「承久の乱」で朝廷側についてしまったことから、一族の領地は大半が没収されてしまいました。
こうして貧窮の身になったせいか、「鎌倉新仏教」を開いた6人の僧侶のうち唯一、仏教アカデミーの最高峰「比叡山延暦寺」の出身ではありません。

もっとも、この頃の比叡山の荒れ放題ぶりはヒドかったので、「入れなかった」というよりも「入るほどの魅力を感じなかった」のかもしれませんけどね・・・・。


10歳で出家して、大宰府で修行するのですが、家督を継ぐために一旦還俗。

しかし、何かに嫌気が差したのか、再び出家。

旅先の長野県・善光寺と三重県・熊野本宮で宗教的感動を受けて、悟りを開いた・・・・と、言われてます。


一遍にとって信仰の最大の危機は、その熊野本宮への道中でのこと。

「南無阿弥陀仏」の名号を刷った「念仏札」を配りながら布教活動に勤しんでいたのですが、それを拒否する僧と出会います。


「俺は阿弥陀仏を信じる気になれないんだよ・・・・」

「念仏を唱える気にもなれない・・・・」

「こんな気持ちでそれを受け取ったら、俺はウソツキになっちまう・・・・」


念仏札を拒まれたことで、一遍、ショック!

気が動転したのか、押し付けるように念仏札を渡して立ち去るのですが、あとになってとても後悔したそうな。

「信じる気のない者にまで布教するのは、間違っているよなぁ・・・・」

熊野本宮に着いた一遍は、答えを求めるかのように「証誠殿」に籠もります。

すると、夢の中に熊野権現が山伏姿で現れて、教えを告げました。


「そなた、『他力本願』の言葉の意味を、まだ分かっておらぬな?」

「そなたが念仏札を配ろうがどうしようが、相手が阿弥陀を信じようが信じまいが、衆生は全部阿弥陀によって救われるのである」

「『自分が救わねば』とは、『自力本願』であろう」

「そういうヘンにリキんだ考えは捨てるこった」


権現さまのお言葉に、一遍またしてもショック!(よくショックを受ける人だ)


「なるほど。手を水にひたす時、どんなに『濡れるな』と念じても、どんなに口で言っても、どうしても濡れてしまう」

「それと同じで、どんなに『極楽に行きたくない』と念じても、どんなに口で言っても、名号(南無阿弥陀仏の言葉)に触れたら行ってしまうんだな」

「信じるもよし、信じないもよし。いらぬ計らいを施すことは一切捨てて、ただ阿弥陀仏に祈る道を模索しよう」


一遍、大悟の瞬間。


こういう経験から、

①「仏に救いを求める」のではなく、「救ってくださることに感謝」する。

②「あの世(極楽浄土)」よりも「この世での信仰」を大事にする。

という特徴が「時宗」にはあって、だから「今ココで、最大限の感謝を表す」ために、「踊り念仏」が生まれたんではなかろうか・・・・と、ワタクシは思ってます。

(ちなみに「時宗」の「時」とは、「時を同じくして共に念仏を唱える」ことを意味しているみたい)

まぁ、まったく詳しくない「時宗」の教義の解釈は、ここらで収めておきますが、少なくとも「一遍」という男は、

「過去より未来より、今!」
「死後の世界より、今!」
「今、この瞬間を、どうするかが大事!」

そういう考え方をする人物だったんだろうなーと想像しています。

突き詰めると、

「よく分からんけど、今を頑張れば、そのうちきっとなんとかなるよぉ!」

って意味になるわけで、なんとなくウドちゃんらしい(笑)

だから、けっこういいキャスティングかも知れませんねぇw

というわけで、ワタクシは期待しておりますよw



ところで、ワタクシ「時宗」のお寺って、記憶の限りでは1ヶ所しか行ったことありません。

それは、鎌倉にある「教恩寺」という小さなお寺。

以前書いた、平家最後の大将の所縁のお寺です。

■奈良仏師と最後の大将
http://baron-baron.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-6060.html

他に藤沢市の方にお寺(総本山?)があると聞いてますが、それにつけても他宗に比べて、あんまり聞かない宗派です。

で、一遍って先にも触れたとおり、愛媛県の出身。

長く旅をして周り、老いて故郷に戻ったのですが、また旅に出て、最期は旅先の播磨(現在の兵庫県)で亡くなっています。

二代目となる遊行上人は、九州の人。

ここから見ると、時宗って「鎌倉新仏教」のくくりではあるけど、西国の方で広がっている宗派なんだろうか?

と、ふと思ったので、つぶやいてみるテストです(笑)


ちなみに、ワタクシは時宗の信徒(時衆)ではありません。

・・・・と、念のため追記しておきます(浄土真宗の檀家でございます・・・・)

2011年9月25日 (日)

ドランクバーサーカーの神退治

戦国時代、上杉謙信と言えば、最凶のバーサーカーにして、最凶の酔っ払い。

・・・・じゃなくて(笑)、「軍神」「越後の龍」とも怖れられた、最強の戦国大名。


元々は越後守護代「長尾家」の生まれだったのですが、お父サン(長尾為景)がクーデターを起こして、越後守護大名・上杉氏から政権を奪取します。

父の死後、病弱な兄・晴景に代わる形で、越後のリーダーとして君臨することになりました。


一方、関東に目をやると、「関東管領」は名門「山内上杉家」が代々担っていたのですが、新興勢力・北条氏に対抗しきれなくなると、自分に変わって関東を治められる、武名の誉れ高い人物を探し始めます。

そんな中、謙信(当時は長尾景虎?)の武名と義の精神に感銘を受け、「上杉」の名字と「関東管領」の官職が、謙信に譲られることになったのでした。


・・・・と、ここまでは前置き。

謙信の関東管領就任式は、鎌倉の鶴岡八幡宮で執り行われたそうですが、その晩のお話。


ふと妖しい気配に気がつき、謙信が飛び起きると、枕元には亡霊が立っておりました。

「何者!?」

鋭い詰問に、亡霊は厳かに語り始めました。


『その方・・・・ちっぽけな武辺に奢り、関東の覇者を名乗るとは、何様のつもりぞ・・・・』

『関八州は吾の土地である・・・・断じて渡さぬ・・・・渡さぬぞ・・・・』

『余は新皇・平将門なり・・・・ぎゃー!?』


なんと謙信は、将門と名乗った亡霊を、有無を言わさず斬りつけたのでした(!)


『な、なにするんだ貴様はー!!』

激怒する将門に、謙信は叫びます。

「私は、都におわす主上より『関東の逆賊を討ち平らげよ』と勅命を受けておる!」

「お前は畏れ多くも『新皇』を騙り、帝と朝廷を蔑ろにした逆賊ではないか!」

「逆賊が覇者とは片腹痛い!成敗いたす!・・・・うぃ~ひっく」

『・・・・うぃ~ひっく?』

「いや、なんでもない」


あの平将門の亡霊に、問答無用で斬りかかった上杉謙信。

いるんだかどうなんだか分からない亡霊・祟り・妖怪のミステリー程度では、酔っ払いの先入観なし&理性の吹っ飛んだ酔狂さには敵わないのではなかろうか、というお話でした(笑)


夏の終わりにミステリー巡りなどいかが? 現代に残る伝承10
http://youpouch.com/2011/09/25/130018/



「将門の乱」といえば、平安時代の反乱の話題になれば、必ず名前が挙がる反乱。

でも、その実態は「意外と大したことない」だったりします。

朝廷の官軍が着くより前に、地元の豪族によって鎮圧されてますしねー。


じゃあ、なんで将門は「怨霊」として今もなお怖れられているのか?

そのあたりはともかく、そのうち平将門について、だらだら書けたらいいなーと思っております。

できれば、来年の大河が始まる前に・・・・(間に合うのか?)

2011年9月21日 (水)

信濃の国の兄妹

「武田信玄といえば、今でいう何県の戦国大名?」

という街角クイズを出題したなら、はたしてどれくらいの人が正解するだろうか。


「上杉謙信といえば、今でいう何県の戦国大名?」

という問題なら、きっと7割くらいの人が「新潟県」と正解してくれるのではないかと思う。

でも、信玄の場合は「知らない人3割、間違えた人3割」という計算で、正解率は4割くらいまで落ちるんじゃないかな・・・・と予想しています。

武田信玄といえば、やっぱり上杉謙信と戦った「川中島の戦い」のイメージが強い名将。

「ライバル謙信と直接対決をした=新潟県のお隣」となって、もしかしたら「長野県」と間違える人が多いのでは・・・・というのが「間違えた人3割」を予想した理由。


正解は、かつて「甲斐」と呼ばれていた「山梨県」の戦国大名。

「長野県人(信濃)」からしたら、信玄はむしろ侵略者。

なんせ、信濃守護の小笠原サンを追い払ったり、土着の国人たちを各個撃破したり、領民を奴隷として売り飛ばしたりしてましたからねぇ・・・・(^^;


だから、「長野県人なら誰でも歌える」というウワサの県歌「信濃の国」の歌詞には、「武田信玄」の名は出てこなかったりするのです。

これぞ、「長野県人は武田信玄をよそ者と思っている」何よりの証拠。

武田信玄は山梨県人なんです。間違いなく(笑)

今年は2度、長野県内を旅をしましたけど、武田信玄の扱いは、あんまり積極的なものではなかったなぁ、という印象が残っています。


ところが。

これを「武田二十四将」にまで範囲を広げてみると、1人だけ「信濃の国」で歌われている人がいたりします。

さて、それは誰でしょう?


「武田二十四将」とは、戦国大名・武田信玄に使えた24人の名将のこと。

全員の名前をいちいち列挙してもいいですが、めんどくさいので今日はパス(笑)

有名どころでは、山本勘助とか、馬場信春とか、高坂昌信とかがいます。


「信濃の国」に選ばれているのは、「仁科五郎盛信」という武将。

「・・・・誰?」と思われた方も多いかと思いますが、この人、実は武田信玄の五男。


「信濃の歌」には「武田信玄」は入ってないけれど、その息子「仁科盛信」は入っている。

これ戦国好きにもあまり知られていないトリビアのようでして、先日友人に話してみたら面白がられました。

ちょうどネタもないってことで、取り上げてみようと思った次第ですw



それにしても、どうして山梨県人「仁科盛信」は、長野県歌に名が載っているのだろうか?

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2011年5月23日 (月)

たかつぐんちの話

職場に「今年、飛騨高山へ家族旅行に行くんだよ~」という人がおりまして。

そこから、今週の「大河ドラマ・江」で、初が嫁いだ「京極家」の話になりました(←歴史が好きな人なので)


これが意外に好評だったので、今宵の日記に取り上げて見ようという魂胆。

まぁ、いつものように自己満足ですw


今日は、今年の大河の主役である三姉妹の1人・初を娶った「京極高次」までを紹介して、カテゴリー「姫たちの戦国外伝」とします。



まずは、さらっと「室町幕府」のおさらいから。


「戦国時代」っていうのは、区分的には「室町時代」の終わりごろの呼び方。

「室町時代」とは、足利尊氏が開いた「室町幕府」の時代です。

「室町幕府」のナンバー1は、もちろん「将軍」。


幕府のナンバー2は「管領(かんれい)」と呼ばれます。

「管領」は将軍の補佐官。権力を掌握するポジションです。

将軍を「総理大臣」とするなら、「内閣官房長官」って感じでしょうか。

以前、朝廷のナンバー2「関白」は、「五摂家」と呼ばれる「藤原氏の中でも特別な一族」しか就任できないと、紹介しました。

これと同じように、幕府のナンバー2「管領」も、「三管領家」と呼ばれる「足利氏の中でも特別な一族」しか就任できません。

「三管領家」とは、

「細川(ほそかわ)」「斯波(しば)」「畠山(はたけやま)」

この3つの家。

「管領」については、今回は関係ないのでここまで。あくまでおさらいってことで。


そして、幕府のナンバー3は「所司(しょし)」。

軍事・警察を担う「侍所(さむらいどころ)」のトップ(=頭人)
さらに、首都・京の治安維持も職務です。

かつての「自治相」が「東京都知事」も兼任しているって感じでしょうか。

この重役である「所司」に就任できる家も、決まっていました。

「山名(やまな)」「赤松(あかまつ)」「京極(きょうごく)」「一色(いっしき)」

この4つの家が交代で就任しました。通称「四職(ししき)」。


「細川」「斯波」「畠山」「山名」「赤松」「京極」「一色」

この七つの家は「三管四職(さんかんししき)」と呼ばれ、守護大名の中でも特別な存在。

「京極」は、その特別な存在「四職」のひとつだったわけです。


「京極」は地名を取って名乗ったもの。
本姓は「源」、元々は「佐々木」を名乗っていました。

佐々木家は、元は宇多源氏(宇多天皇の孫が臣籍降下したもの。ちなみに宇多天皇は「菅原道真」をエコヒイキした、あの天皇です)

平安時代から続く武家の名門で、源頼朝の挙兵に従って活躍し、その功績から「近江」の守護職を与えられました。

鎌倉時代、佐々木家の4兄弟が領地を分割相続したのですが、南近江の守護「六角(ろっかく)」と、北近江の守護「京極」にまとまっていき、「近江」を南北に二分して統治することになりました。

ちなみに、本家筋は「六角(ろっかく)」の方です。
今年の大河には(何故か)登場しませんでしたが、戦国時代にも続いておりました(信長にボコられました)


京極家で有名な人といえば、なんといっても「京極高氏(佐々木道誉)」。

鎌倉時代末期(14世紀)、ちょうど「太平記」の時代に活躍した武将です。

元々は鎌倉幕府の「御相伴衆(ごそうばんしゅう。秘書官みたいなの)」

しかし、執権・北条高時が闘犬や田楽に夢中になって政務を疎かにする姿を見て、「だめだこりゃ」と早々に見切りをつけていたみたい。

足利尊氏が鎌倉幕府を裏切ると、同調して京都へ侵攻。
一緒に「六波羅探題(京都を監視する幕府の出先機関)」を滅ぼしています。

倒幕後、後醍醐天皇と足利尊氏の関係にヒビが入ると、引き続き尊氏を支持。

この後、北条の残党に鎌倉が占領されても、朝敵になって追討されても、大敗して九州に逃亡しても、ずっと尊氏を支持。

こうした功績を評価されて、「北近江」に加えて「出雲」「隠岐」「飛騨」「摂津」「上総」の守護に任命されました。

本家筋の「六角」ではなく、分家筋の「京極」が「三管四職」に選ばれたのは、「道誉はずっと俺のために働いてくれたから」という尊氏の感謝があったんでしょうかねー。


で、「室町幕府」は「鎌倉幕府」「江戸幕府」と違って、かなーりグダグダな状態で創業されました。

それは道誉の死後も収まっておらず、その混乱の中で「摂津」「上総」は、息子の代で失ってしまったみたい。

それでも京極家は、

・北近江(滋賀県北部)
・飛騨(岐阜県北部)
・出雲・隠岐(島根県)

この4ヶ国に領地を持っていた“名門中の名門”として戦国時代を迎えます。

(13~14世紀、大体の勢力図)

Photo

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2011年4月26日 (火)

晩酌の心得

昨日のバラエティ番組で、


「室町幕府の第6代将軍は誰でしょう?(ヒント:くじ引きで将軍に選ばれた)」


という歴史ジャンルのクイズが出題されていました。


「くじ引きで将軍に決まるって、そんなことあるの?」
と、一緒に見ていた母上が不思議そうにしておりましたが、それがあるんですよー。

彼の名は「足利義教(あしかが・よしのり)」

15世紀(の前半)の人です。
ちなみに現在の大河ドラマ「江」は16世紀(の後半)の話。

5代将軍・足利義量(よしかず)は、若いクセに“アル中”でして、酒でやられていた「弱り目」に、疱瘡の病にかかる「祟り目」をくらって、あっけなく18歳で死去。

跡取りがいなかったので、後継者は“岩清水八幡宮”で「神前くじ引き」して決めることになります。

そこで見事に選ばれたのが、出家して僧侶になっていた義教。

義量から見ると、義教は父の弟。13歳年上です。

甥から(年上の)叔父に代替わり・・・・って、他に例があるかなぁ?
大海人皇子(飛鳥時代)くらいしか思いつかないけども。
(藤原伊周から藤原道長は、違うよね・・・・)


この「くじ引きで選ばれた」のが「歴史を動かした遠因」と見ることができるフシがありまして。

そのへんを適当に語って日記にしちゃおうかな・・・・と邪心(?)が目覚めかけたのですが。

実は、母上が“同好会の仲間からもらった”という白ワインの品評会(要するに晩酌)をしてしまったのです。

ワタクシ下戸なので、お酒が入ると頭がいつも以上にアッパラパーになってしまいます。

その状態で歴史を駄弁るのは、できなくもないけど、やめとこうと。

ちなみにお味のほうは・・・・うん、白ワインだった(←バカ舌+アッパラパー)


明けて暮れて、今。

今夜は書いてみようかな・・・・と思っていたんですが、「昨日のが半分残ってるから飲んでしまおう」と提案され、また飲んでアッパラパーになってしまっているので、再びパスです(笑)


ワタクシ、晩酌って滅多にしません。

外で飲むこともあまりないので(車で移動なので、食事くらい)、お酒を飲むこと自体が少ないというべきかな。

だいぶ前の話ですが、妹が会社の「飲み会」に行くことになり、「帰り車で迎えに来て」と頼まれたことがありました。

「いいよー。でも『ふしぎ発見』を見たいから、10時以降にして」

と言って、11時に電話が来たので迎えに行ったのです。

その時、妹の会社の人たちが「え、お兄サン晩酌しなくていいの??」と、ビックリされたんだそうな。

それを聞いて、「え?普通は晩酌するもんなの??」と、むしろこっちがビックリしたもんですが、ウチの職場の人に聞いても「(自分・旦那が)晩酌するのが普通」が圧倒的多数。

どうやら、ワタクシみたいなヤツは、マイノリティらしいです。

酒は飲まない、タバコは吸わない、ギャンブルもパチンコもやらない・・・・つまらない男でスミマセン(^^;

ついでに「『10時以降にしてね』ってのも変わってる・・・・普通は『遅くなったら迎えに行かないからな』だよねー」とも言われたらしい。

変わり者でスミマセン・・・・つーか、テレビっ子なんだよほっとけw


ああ、そういえば、さっき白ワイン飲んでいてふと思ったんですが、酒のつまみって、どのタイミングで食べればいいんだろうか。

「食べる→飲む」?
「飲む→食べる」?
「つまみを咀嚼しながら飲む」?

普段お酒を飲む時、つまみとか食べない(用意しない)ので、慣れてなくて。
一緒に食べるはずだった柿ピーが、今もまだ手許に残ってます(笑)

まぁ、好きなタイミングでつまめばいいんだろうけども。

2011年4月 1日 (金)

和歌で、城を。

今日は4月1日。エイプリル・フール・デー。略してAFD。

「ウソをついてもいい日」ですが、去年にならって今年も「ウソみたいな本当の話」をやろうと思います。

ええ、歴史ネタです。
つまり、自己満足です(笑)

・・・・今回は自己満足どころか“どマイナー”過ぎて、誰もついて来ないかも。

一応分かりやすそうに書いてみますが、その時は「歴史は源平・戦国・幕末だけじゃないんだ」と思って、諦めてください(?)


今日取り上げるネタは、文明元年(1469年)、戦国時代前夜にあった話。

歴史好きにとっても、だいぶマイナー感の漂う時代ですが、ちょうど「応仁の乱(1467~1477年)」が始まった頃といえば、イメージしやすいかな?

先に結末だけ言ってしまうと「城を奪われた武将が、和歌で城を取り返した」という、ウソみたいな本当の小話です。


主人公は「東常縁(とう・つねより)」

美濃(岐阜県)北部の郡上郡・山田庄に住む国人。

この頃は、六十代くらいのジジイ。

優れた武将である一方で、和歌の達人。母方の家系が「百人一首」の撰者・藤原定家の血を引いているので、そのせいなんでしょうかねー。


「東氏」は、元を辿れば「下総(千葉県北部)」の名門一族「千葉氏」の出身。

「千葉氏」といえば、有名なのは2代目当主の「千葉常胤(つねたね)」。

源平の時代、源頼朝が「石橋山の戦い」で平家に大敗して、ボロボロになりながら房総半島に逃げてきた時、真っ先に駆けつけ、頼朝から絶大なる信頼を寄せられたのが彼。

東氏は、この常胤の6番目の末っ子「千葉(東)胤頼(たねより)」を祖とします。

胤頼の孫「東胤行(たねゆき)」が、「承久の乱(鎌倉幕府vs後鳥羽上皇=1221年)」で活躍し、その恩賞として美濃北部に1万5千石の領地をもらって移ったのが、美濃「東氏」の始まりです。


本家の「千葉氏」は、下総を本拠として活動していたんですが、なかなか有能な当主に恵まれませんでした。

家臣団の台頭を抑え切れず、「享徳の乱(関東管領vs古河公方=1455年)」の混乱の中で家臣に謀反を起こされて、「千葉宗家」は16代目で滅亡してしまいます。

これに、関東管領・上杉房顕が大激怒。
(千葉氏は、享徳の乱で関東管領に味方しようとしてました)

「我らの千葉家を謀反で滅ぼすとは、言語道断だッ!」

関東管領として援軍を要請すると、室町幕府は「千葉常胤」の子孫である美濃の「東常縁」に「千葉一族をまとめ、賊を滅ぼし、千葉宗家を再興せよ!」と命を下し、下総へと送り込んだのでした。


東常縁は、宗家の敵を滅ぼすことに成功するのですが、そのまま長期化する争乱にずるずると引き込まれ、関東に長居を余儀なくされます。

そんな最中に、西日本では「応仁の乱(細川勝元vs山名宗全=1467年)」が勃発。

地元・美濃の守護「土岐氏」は「西軍(山名側)」についたのですが、山田庄がある美濃北部は土岐氏を嫌っていたために「東軍(細川側)」についてしまいます。

そんな流れの中で、美濃守護代「斎藤妙椿(さいとう・みょうちん)」は、常縁の主城「篠脇城」を攻撃し、陥落させる・・・・という展開になったのでした。

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2011年3月10日 (木)

奈良仏師と最後の大将

古都・鎌倉に「教恩寺(きょうおんじ)」という寺があります。

知名度は低くて「鶴岡八幡宮」「建長寺」「東慶寺(駆け込み寺)」「円應寺(エンマ寺)」なんかには遠く及ばないし、ガイドブックにも載らないし、修学旅行で行くような名所でもありません。

「鎌倉三十三観音」の御朱印を頂戴するために行ったことある人は、もしかしたらおられるかもしれない。

そんな「知る人ぞ知る」巡礼スポット。

奥まった路地裏にひっそりとあるので、通り過ぎてしまいそうになる小さなお寺ですが、ここには平安時代から鎌倉時代に移る時に起きた事件の、華やかで悲劇の結末が眠っているのです。


12世紀の平安時代末期は、源氏と平家が争う「源平合戦」の時代。

源氏は「平治の乱」のどさくさで棟梁(義朝)を失うという痛手を喫して、しばらく充電期間(?)に入っておりましたが、もう一方の平氏は「平清盛」をリーダーとして、元気いっぱいの最盛期を極めておりました。

その清盛の五男が、「平重衡(たいらの・しげひら)」

武将として優秀で、彼が指揮した戦いは連戦連勝の負けなし。しかも「なめまかしくきよらか」と書かれるほどのイケメン(笑)

“常勝将軍”として、イマイチ頼りないリーダー(宗盛)を、同じく猛将として知られる兄(知盛)とともに支えた、名将コンビの1人です。


そんな彼の人生には、痛恨の出来事が2つありました。


1つ目は、「南都焼き討ち」。

「反平家」の気勢を上げる奈良・興福寺を、「源氏や反平家勢力と連携される前に叩いておこう」と清盛の判断が下り、平家軍が派遣されます。総大将は、重衡。

12月25日に京都を進発し、28日には決着がつくという、スピード解決。
さすが、名将の誉れ高い重衡の采配です。

“常勝将軍”の名に恥じず、勝つことには勝ったのですが、戦火が燃え広がって大火事に発展するというアクシデントが発生。

「興福寺」は、三十八の堂舎が被災し、数え切れないほどの貴重な仏像や経典が焼亡。
お隣の「東大寺」も、正倉院と転害門などのいくつかの建築物以外の大半の伽藍が焼失。
金堂(大仏殿)も炎上し、大仏までもが大ダメージを受けてしまいます。

修業や留学で寝泊りしていた僧侶や、奈良の住民など、非戦闘員も含めておびただしい焼死者が出て、大惨事になってしまったのでした。


なんだか戦国時代にも聞いたことがあるような話ですが(笑)、重衡がどこまで狙ってやったのかは不明。

ただ、『平家物語』では、浄土宗の開祖・法然と会うシーンがありまして、そこでは「罪業は須弥よりも高く、善業は微塵ばかりも蓄へなし」と懺悔のような言葉を吐いているので、後悔はしていたみたいです。

ちなみに、清盛はこの後しばらくしてから亡くなっており、その死因は「焼けるような熱病にうなされて」と表現されて「大仏殿を焼いた仏罰だ!」と噂されました。

しかし、もう一方の当事者である重衡はピンピンしていて、この後も「墨俣の戦い(vs源行家)」や「水島の戦い(vs木曽義仲)」と、連戦連勝で白星を増やしていきます。
仏罰とやらは、何処へいったんでしょうかね・・・・?(^^;


2つ目の痛恨は、“平家滅びの序曲”「一の谷の戦い」

平家が次々に死んでいくこの戦いで、重衡も奇襲を食らって大敗。
馬を射られたところを生け捕りにされてしまいます。

さしもの“常勝将軍”も“天才戦術家”源義経には勝てなかった・・・・という、歴史の神様の気まぐれ。
重衡は初めて源氏に負けたこの時、平家の中で「捕虜第一号」になってしまったのでした。

ここで重衡を失ったのは、平家にとって痛い。
もし逃れていたなら、戦略的ターニングポイントとなった「屋島の戦い」や、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」は、どんな結末になっていたでしょうかねぇ・・・・。
(それでもやはり、チートじみた義経には勝てなかったんでしょうか・・・・?)


捕虜となってしまった重衡は、「三種の神器と引き換えの人質」として外交カードにされるのですが、宗盛が「源氏と平家を平等に遇してくれるなら」と無理難題を求めたために交渉決裂。

京都で身柄を拘留された後、「壇ノ浦」で平家が滅ぶと、源氏の本拠・鎌倉に移送され、頼朝と面会するという運命をたどります。

頼朝「捕虜となったのを、恥ずかしく思わないかね?」
重衡「武門の家に生まれた以上、敵の手にかかるのは覚悟の上のこと。首を打たれようとも恥ではない」

頼朝は、この毅然とした態度に感服(ちなみに、頼朝の方が10歳年上)

家来の狩野介宗茂(かりゅうのすけ・むねもち)の家に預け、捕虜としては格別な待遇でもてなしました。


やがて、重衡は京へ連行されます。

重衡を不倶戴天の敵とする南都の僧侶たちが「俺たちの手で処刑する!」と、身柄の引渡しを要求したためでした。

途中、木津川のほとりで、処刑。享年29。

首は奈良坂で晒され、平家の最後の大将は、儚く散っていったのでした。


この鎌倉に留めおかれた時、重衡の態度に好意を持った頼朝が「せめてもの慰めに」と、重衡に「阿弥陀三尊像」を与えたと言われておりまして。

その仏像が、冒頭に紹介した鎌倉「教恩寺」の本尊として、今に伝えられているのです。

ワタクシも、鎌倉を旅した時に拝観しましたが、すごくきらびやかなバックに、黒い像容が映えておりました。

目が細くて、でも眼光鋭い。やさしそうでもあり、頼り甲斐がありそうでもあり・・・・。

脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は、かなりキュートな感じがしました(膝の曲げ方とかが)

まぁ、「源氏と平家にゆかりある仏像」・・・・という先入観を、惜しげもなく出しまくって見てきた感想なので、参考にならないかもしれませんが(笑)

重衡が「大仏を焼いた大罪人ではあるが、どうか往生させて欲しい」と祈ると、3回うなずいたと言われています。


今日3月10日は、重衡が鎌倉に移送された日。

というわけでネタにしてみたんですが、もうひとつ。

昨日たまたま『歴史秘話ヒストリア』を見たら、運慶が紹介されておりまして。
この「教恩寺・阿弥陀三尊像」も運慶作と言われているので、ついつい思い出してしまったのもあります。
(「ヒストリア」にはちらりとも登場しませんでしたが)

運慶といえば、南都再興で腕を振るった「奈良仏師」として有名。

再興しなければならないほど灰燼に帰した張本人・重衡に、自分が作った仏像が与えられたと知ったら、どう思ったでしょうかね?

天平の仏像に親しんだ慶派の人間としては、許せない気持ちがあったのかどうか・・・・気になるところです。


ちなみに、お寺の住職に聞いてみたら「運慶というより、快慶の作風に近い」とおっしゃっておりました。

確かに運慶の作なら、もうちょっと逞しく表情も引き締まって、いかにも武家好みな風体になっているような気がします。

快慶の作風は、肉体美がありつつも、繊細で優美。
平家の貴公子に与えるなら、快慶作の方がハマり役だーね。

まぁ、日記のネタとしては「慶派」の作ってことで、一緒一緒・・・・ということでw



余談、その1。

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2011年1月 9日 (日)

まぼろしの兄 ~姫たちの戦国外伝

今日から大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」、ついにスタートしましたね。

ワタクシは「平成教育委員会」を優先してしまったので、まだ見ておりません。

まだ見ておりませんが、年末年始にはNHKや週刊誌で、関連ネタが多く取り上げられておりました。

それ見る限りでは、今年の大河は「浅井家三姉妹物語」っていうコンセプトがあるのかな?といった印象を受けたんですが。

三姉妹・・・・だけ?

えっと、浅井長政には三男三女の「6人の子供」がいたんですけど。
つまり、お江には3人のお兄サンもいたんですけど。

この息子たちのことに触れている番組をついに見かけなかったので、「それでもNHKかよ~」という残念な気持ちでいっぱい。

そんな状況で、この日を迎えてしまいました。ああ、今年の大河が不安だ・・・・。


お江のお兄サンたちは、父・浅井長政の死、小谷城の陥落のおりに信長によって処分され、浅井家は滅亡したとされています。

天正元年(1573年)のこと。嫡男・萬福丸は処刑(享年10)。次男・萬寿丸は出家させられてしまいました。三男は不明。

主役のお江は、この時生まれたばかり(0歳)。父や兄たちの顔を知る機会は、永遠に失われてしまいました。

ちなみに、浅井家と織田家の同盟が破棄されたのは元亀元年(1570年)。
長政は、織田家と縁が切れてもお市を手放す気はなかったんだなと。やることはやってたんだなと。
それだけお市は美しかったのかねぇ・・・・と、思わされる史実です(^^;

夫婦の情事はさておき、小谷城が陥落した時、お市が自害しようとしたのは何故なのか?と考えると、

「兄(信長)が息子の延命を認めてくれない・・・・子どもの半分を見殺しにするくらいなら、私も・・・・」

という悲壮な想いがあったのではなかろうかと、ワタクシは想像しています。

でないと、夫を裏切ってまで「袋のネズミ」の暗号(小豆の袋)を送ったクセに、あそこで死のうとした心境が、中々納得できません(まぁ、葛藤があったんでしょうけど)

だから、いくら主役のお江の記憶に無いからって、息子を「いなかった扱い」にするのは、歴史の醍醐味をむざむざ捨てている行為だと言えるのではなかろうか?と思うんですが、どうでしょうかね。

NHKはもったいないことしたなぁ・・・・。

前奏でこれですから、本番(大河ドラマ)では、どのような扱いになるのやら?

明日あたりに見るつもりなので、そのあたりにも注目してみたいなーと思っている次第です。

うーん、嫌な予感がするよぉ・・・・(笑)


ところで、浅井滅亡後、まだ動乱のやまない戦国時代を逞しく生きた武将たちの中に、「浅井長政の忘れ形見」とされる人がいます。

彼の名は、浅井井頼(いより)。またの名を浅井周防守長房(すおうのかみ・ながふさ)

さっき不明と書いた、長政の三男ではないかと言われている人物です(一説には、出家した次男・萬寿丸とも。あるいは分家筋の別人とも)

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2011年1月 7日 (金)

1400年の実力

寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。

何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

(徒然草 第116段 兼好法師)


お寺の名前とか、色々なものに名前をつけるとき、昔の人は凝ったりしないで、ただ“ありのまま”に、そして分かりやすいように付けておりました。

それが最近になると、あれこれ凝って、自分の賢さをひけらかそうとしていて、とても嫌味ったらしい。

人の名前にしても、見慣れない漢字を使おうとするとか、意味のないことをしなさります。

何事も、珍しさばかり追求して、普通じゃないことを好んでやらかすのは、薄っぺらな教養しかない人が必ずやりそうなことですなぁ。

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お正月から、ちょうど「徒然草」を読んでいるところなので、ついついこのニュースに反応してしまいました(^^;

DQNネームはなぜいけないのか
http://netallica.yahoo.co.jp/news/161796


ワタクシがDQNネーム(っていう言い方も好きじゃないけど)が好きじゃないのは、「ネタにしか思えないから」です。

文字や字面から感じる子供への想いとか、親の教養とか、思想とか、家庭の姿とか、そうした“良さげなもの”よりも、まず“親の趣味ありき”だけが飛び込んでくる。

そこには「名前の付け方がヘタクソだなぁ」という、まさに「薄っぺらな教養」しか感じられない。

兼好法師と同じ感想。

「徒然草」は14世紀、鎌倉~南北朝時代の作。

700年前の著作です。

使い古された言い回しですが、人間って昔から変わらないネ。


でも、そうそう変わらないのが人間なら、まぁ許してもいいんじゃない?って気はします。

このコラムの主張も、時代が人名の前衛さに追いついてないだけなのかもしれません。

何十年か後に「この名前でさえ、昔は批判する人が多かったんだよ」「うわー、頭が固かったんだな(笑)」って言われる時代が来る・・・・って可能性もあるからね。

ただ、来るか来ないか分からない「その時」が来るまで、親は笑われ続けたり、白い目で見られたりするのを覚悟した方がいいかも。

それが前衛のつらさだよ。頑張れ。

ワタクシはアナタ方を笑い続けます(笑)



そういえば、「山」と書いて「やま」と読むのは、実はものすごい日本人独特の能力。

「山」は、本来は中国語読みしかない文字。それを見て「やま」と読んでいるんですからね。

極端に言えば「mountain」という字を見て「やま」と読んでいるのと、同じなわけです。


そこから考えるに、「月」と書いて「るな」とか、「星愛」と書いて「きらら」とか、「読ませる」というけど、まずは「聞いてみれば、そう読めそうかなと「理解できている」わけです。

飛鳥・奈良の万葉の時代から積み重ねてきた日本人の修練が、「読める」能力となって自分に顕れているわけです。


ならば、名付け親の浅才を嘲笑するなんていう、意味のないことをするよりも、まずは読めている自分を褒めてあげましょうぜ。

日本の祖先の偉大さに敬意を表しましょうぜ。

日本人は「700年の昔から変わらない」という以前に、
日本人は「1400年の昔から凄いヤツだ」ってことですな。


まぁ、たまに「読めるかボケ」っていう難読(というか難解)な名前もあるけどね(苦笑)

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